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天気のこと。季節のこと。

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その瞬間にだけある色、音、匂い。 うつろう風景。
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鼻先で笑う筆先

鼻先で笑う筆先

新しい季節はいつも、匂いからやってくる。
玄関を出ると、昨日はなかった空気に満ちていて。
雨上がりみたいにムッとした草の匂い。
誰かが去ったあとの日焼け止めの残り香。
早起きした夏休み、足を踏み出した朝の香り。

信号待ちで肌が焼けていくのを感じていると、何かが腕に留まった。
とっさに振り払ったそれは、ぽいとアスファルトに放り出されたフタホシテントウだった。
ざらついたコンクリートの上を、ちいさな

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背中押す緑

背中押す緑

あっという間に緑に囲まれる季節になってしまった。
決して言葉から離れていたわけではないのに、しばし自分の言葉を後回しにしていた。

朝、自転車で切る風の匂いに夏が混じっている。
視界に溢れる葉々に心地よさを感じながらも、湿気と熱を含んだ匂いに一瞬身構えてしまう。
次の季節の予感にせっつかれているようで、なんともいえない焦りが過ぎる。

そういえば、最近あまり新しいことをしていなかったな、と思う。

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月の嫉妬

月の嫉妬

すっかり桜も散り落ち、いよいよそこかしこに新しい緑が覗くようになってきた。
実家の葉牡丹はゆうに一メートルを超えた背丈の先に、菜の花の如き花を咲かせている。
なるほど、そうこうしているうちに菜種梅雨なんて言葉の聞こえる季節になっていたりして。

夜のはじめ、ふと見上げた桜の木はすっかりこざっぱりとした枝葉を揺らしていた。
枝々の隙間から、上弦の三日月がこちらを見下ろしている。
三日月とはこんなにも

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逃げる花。

逃げる花。

明日の朝、起きたら死んでいるんじゃないかと思うことがよくある。
いや、死んでいたら起きないのだから、それも妙な話か。
とにかく、自分はとても、ギリギリのところにいるんじゃないかと思うことが増えた。
どこかで一本、か細い糸がピンと切れてしまったら、途端にすべてが崩れてしまうのではないか。
そんな気がしてくるのだ。

ビュンビュン自転車を漕ぎながら、あっと石にけつまづいた拍子に。
調子よく駆け上がった

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blurred night hike

blurred night hike

久しぶりに夜道を歩いた。
といっても、二十分ほどの距離を往復するだけ。
けれども、なにぶん視力のせいか夜目がきかない。
といって、メガネをかけるほど見知らぬ道でもない。
すべてが闇夜にぼやけ、すれ違う人は皆、すりガラスの向こうにいるようだ。
時折、通り過ぎるのは外国人ばかり。
耳慣れない言葉が、すれ違う瞬間だけ音量を増す。

以前はよく通ったアーケード街。
すっかりシャッターが下りた店ばかりになっ

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秋の日

秋の日

グラデーションが好き。
それはわりと最近になって気づいたこと。
自分が描く絵にも、つくるものにも、やんわりと移ろう色が多い。
移ろい半ばの色が好きなのだと思う。

夕刻、見上げる空は白んだ空色から薄紅、茜、薄紫、ゆっくりと藍へと変化していく。
ふと目を落とした生垣の葉は、葉先を赤く染めて。
赤と濃緑を取り持つ黄が幾重にも連なる。

グラデーションは生きている証拠。
過ぎる時のなかで、自らが常に変化

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消えゆくものを数える季節

消えゆくものを数える季節

水に浮かんで視界を空だけにすると、あぁ、こういう世界もあったのかと思い知らされる。
十秒前に何を考えていたかとか、明日は何を買うんだっけとか、そういうこまごましたものが、一時、どこかへ飛ばされていくようで。

泳ぐなんて何十年ぶりだろう。
自転車と同じで、一度体が覚えたら忘れないものだな。
そんなふうに思いながら、ふわふわと水の間を進む。
浅瀬に腰を下ろすとロッキングチェアーのように、波に合わせて

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野生の行方

野生の行方

ひょいひょいと、続く塀の影を渡りながら進む。
耳の奥まで熱を注ぐような陽から逃れると、一瞬だけ汗が引く。
昔は陽のあたるところを選んで歩いていた。
日焼けなどどこ吹く風で、照らされる心地よさを感じたものだった。

それが今や、まるで忍びの如く、影から影へ。
陽射しから身を隠さなければ、目的地にたどり着くことさえ危うくなってくる。
暦が次の季節に移っていると言われても、実感のない白昼。

ところが、

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尖ったあいつ。

尖ったあいつ。

連日お風呂の中を歩いているようだな、と外に出るたび思う。
それでも花も咲き、実も成る草木には頭が下がる。
湯に浸かった水中花のごとく、夕風に吹かれた花が揺れる。

芽吹きの季節はだいぶ過ぎてしまったけれど、新芽を見つけることはしばしばある。
よくよく目を凝らしてみると、黄緑のちいさな粒が色づく季節に備えていたり。
花と交代するように、木々の頂上に現れた新しい葉が光る。

ヒイラギやヒノキ類のように

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夏空の泡沫

夏空の泡沫

近所の百日紅並木が満開を迎えている。
紅、薄紅、白と、それぞれの花を咲かせて、さしづめ夏の桜といった趣で。
それでいて、桜ほど注目を集めないところもいい。
真夏の陽射しに負けず花を咲かせる頼もしさ。
つるりとした樹皮はよく見ると、まるでジグソーパズルのようで、まだらに色が重なる。

中でも私は白い百日紅が好きだ。
真っ青な空にぽっぽっと泡がはじけたような白い花が、とても清々しい。
「さるすべり」な

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ちいさい夏。

ちいさい夏。

桜の木を見上げると、青々とした葉はどれもちいさな穴がびっしりと開いていた。
初夏の頃、お腹いっぱい食べつくした毛虫たちの置き土産。
緑のレースから夏の空が透けて見える。

先日、網戸の外にちいさな卵が産みつけられていた。
直径二ミリほどの薄緑の粒が十数個。
蛾かなにかだろうと踏んでいたら、どうやらカメムシだったらしい。
ひと月と経たないうちに卵は空になっていた。
網戸の網目よりもちいさな虫の子らは

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一瞬の長い夏

一瞬の長い夏

一日続くと構えていた本降りの雨は、昼過ぎ、肩透かしをくらったように止んでしまった。
雨が遠ざかると、息を潜めていた蝉の声が戻ってくる。

先日、実家の木に小ぶりの蝉が貼りついていた。
一見、樹皮かと見まがうような斑模様。
ニイニイゼミだという。

家族が今年初だと持ち帰った抜け殻はアブラゼミのものだった。

つい昨日は、早くもその生涯を終えた蝉が門前に横たわり、蟻たちの糧になろうとしていた。
透き

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熱冷ませぬ雨

熱冷ませぬ雨

子どもの頃、毎月読んでいた小誌「たくさんのふしぎ」。
毎号さまざまなテーマで、とりわけ気に入って何度も読んだ号がいくつかあった。
中でも「アマゾン・アマゾン」という、その名もアマゾンを取材した内容のものは大のお気に入りで、今でもよく覚えている。
ページをめくると、深い緑の森が広がって、いつか訪れてみたいと思ったものだった。
当時はまったく存じ上げていなかったのだけれど、後に今森光彦さんの著だったこ

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先ゆく夏。

先ゆく夏。

6月が去り、この街のお祭月になる。
街の中心を貫くアーケードに、コンコンチキチン、という金属楽器と笛の混じったBGMが流れはじめる。

「山」や「鉾」と呼ばれる山車を所有する町内は、年に一度の大舞台に向けて、その準備に追われる。
山鉾が街を巡る日の三日ほど前から、封鎖された通りに出店と人が溢れ、おそらく一年で最も賑わい華やかな数日。
巡行は昔、郷里の友人が訪ねてきた際、一度だけ観に行ったことがある

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