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【4500字無料】民主主義はキリスト教から始まった!?——「メタ民主主義論とリンゼイ・テーゼ」後編

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*注意:この内容はすでに販売されている、キリスト教が現代の民主主義を生み出した!? ビジネスパーソンに必要な「メタ民主主義論とリンゼイテーゼ」(後編)の内容を一部変更したものです。

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*参考文献については記事末尾にリストを記していますが、特に重要な参照を行った箇所については随時、記します。

前日譚と前編はこちら!!


日本は民主主義の国ですよね!

突然ですがみなさん、日本って民主主義の国ですよね!(前編でもやりました!!)

でも、「その民主主義って何?」と質問されると、意外とよくわかんないんですよね。なんとなく、「古代からあった」みたいな話もあるし、「科学技術の発展みたいな感じで、人類の進歩に応じて自然と今の政治制度や考え方が発明されて発展してきたんじゃないのか」というイメージだと思います。

実は「民主主義の源流が、キリスト教のコングリゲーションにある」という主張があるんです(コングリゲーションというのは集会という意味です)。これが、A・D・リンゼイの「リンゼイ・テーゼ」です。

前編では、まずこの民主主義という言葉をメタ的に見たときにかなり幅を持っているということを、現代の具体例も交えて確認してきました。

今回は2回目の後編です!

後編ではいよいよリンゼイ・テーゼの「民主主義の源流が、キリスト教のコングリゲーション(集会)にある」という主張の中身に踏み込んで行きます!!

リンゼイ・テーゼ概観

「民主主義の源流が、キリスト教のコングリゲーションにある」という主張がリンゼイテーゼです。

「民主主義」については十分話したと思いますが、しかしこの、リンゼイの「民主主義」というのは一体どういうことでしょうか。

前編で説明したような「主義主張」でしょうか? 「制度」でしょうか? 「抑圧への抵抗」でしょうか?

このいずれとも異なります。「リンゼイの民主主義」はあとで説明するので覚えておいてくださいね。

先にこのキリスト教について考えます。

リンゼイはキリスト教すべてを民主主義だと言っているのでしょうか?

そうではなく、これは実際にはかなり具体的なキリスト教集団が指定されています。具体的には、17世紀イギリスのピューリタンのことを指しています。リンゼイ・テーゼとは、「民主主義の源流が、17世紀イギリスのピューリタンのコングリゲーションにある」という主張なわけです。

ピューリタンとは?

ピューリタンというのはイギリスのキリスト教の一派で、「カルヴァン主義」の影響を受けた一派です。キリスト教は大きくカトリックとプロテスタントに別れますが、「カルヴァン主義」というのはこのプロテスタントの一派です。

「カルヴァン主義」はイギリスのプロテスタントの一派

今回は、ともかくそのプロテスタントの中に「カルヴァン派」という宗派があって、ピューリタンというのはイギリスのカルヴァン派のことなんだな、ということがわかれば十分です。

この人たちは、国の宗教に対する考え方に満足できなくて、「もっとラディカルに改革をしたい!」と考えていたので、色々独自の考え方、「こうするのがより良いことなんだ!」という新しい規範を持っていたんですね。このような考え方の全体がピューリタン主義つまりピューリタニズムとも呼ばれます。

こういうと「すごく限られた人の考え方だったんじゃないの?」と思われるかもしれません。しかし実際は当時のイギリスでは、このピューリタニズムがメインカルチャーとしてありました。

では、このピューリタンのコングリゲーションが、どのような意味で民主主義の源流なのでしょうか。リンゼイ・テーゼを理解する上で重要なポイントを一言で言えば、「アグリーメントではなくディスカッション」ということです。

一般に民主主義では「アグリーメント」、つまり「同意」が重要だとされます。つまり国の政治で言うならば、「国が行うことと国民の意見が一致していること」、「国民が政治的決定にアグリーしていること」が大事で、これらが民主主義にとって重要なことだと考えます。

しかし、リンゼイはそうは考えなかった。リンゼイは「民主主義にとって重要なのはディスカッションだ」と主張しました。ここまでくると、ピューリタンのコングリゲーションが、どのような意味で民主主義の源流なのか、ということも見えてきます。

「アグリーメントではなくディスカッションベースの民主主義が17世紀イギリスにおいてピューリタンのコングリゲーションに見出される。」
これが民主主義のスタート地点なんだというわけです。

具体的議論

リンゼイの議論を追ってみましょう。
リンゼイのこの議論が登場するのは『民主主義の本質』という本と、『現代民主主義国家』という本で、どちらも日本語に訳されています。民主主義を論じるにあたってリンゼイは、17世紀のパトニー討論という議論を持ち出します。最初に言ってしまうと、リンゼイはこのパトニー討論でのクロムウェルの考え方に民主主義の本質を見出します。

パトニー討論とその時代と登場人物

パトニー討論とは、ピューリタン革命の最中の1647年、「イギリスの政治をどうすべきか」ということについて話し合われた会議です。ロンドンの近くにパトニーというところがあるのですが、その地名をとってパトニー討論と呼ばれています。

少し込み入った話なのですが、ここが肝なのできちんと説明しますね。
登場人物は、「アイアトン」と「水平派」、「クロムウェル」の3者です。「クロムウェル」については名前を聞いたことがあるかもしれませんが、ピューリタン革命を指導した人です。

「ピューリタン革命」とは、ピューリタンたちによる国に対する反乱です。先ほど触れた通り、ピューリタンたちは、国の宗教に対する考え方に満足できず、様々な不満を抱えていました。そこに、特権商人の保護への不満なども重なり、この内乱が起きました。このピューリタンの反乱によって王政が倒れたためにピューリタン革命と呼ばれます。
クロムウェルはこのピューリタン革命の指導者で、王政が倒れた後はクロムウェルが権力を握りますが、のちに彼自身が独裁的な政治を行うようになったことで人々の心が離れ、クロムウェルの死後には再び王政へと戻るというのが歴史の流れです。

パトニー討論は、クロムウェルがまさにその革命のただなかにいるときの出来事です。この時期、ピューリタン革命の最初の段階が進んでいたのですが、革命をしている側でも内部分裂というか、意見の違いがいろいろ出てきていたタイミングでした。

「アイアトン」は、軍人で、ピューリタンの中でも、保守的な政治的立場を代表していたと考えて良いでしょう。

「水平派」は、ピューリタン革命のさなかに現れた、人民に主権があることを徹底的に主張するグループで、その多くは小規模な農民や商人などでした。

「アイアトン」と「水平派」は対立していて、「クロムウェル」はまったく違う意見を持っています。

パトニー討論の議論


それでは3人の議論を見ていきましょう。まず、アイアトンと水平派の意見が、完全に対立しています。何について対立しているかというと、「誰が選挙権を持つべきか」ということについてです。

アイアトンは「選挙権は財産に基礎をおくべきだ」と主張します。つまり、「財産がある人が選挙権を持つべきだ」という主張です。

水平派は「この国に住むひとは例えどんなに貧しくとも、最も富裕な人と同じく生きるべき生命を持っている」と主張します。つまり、「全員が選挙権を持つべきだ」という主張です。

なお現代的に見れば、アイアトンの言っていることは冷酷な感じがしますが、当時の感覚からいえば必ずしもそうではありません。
なぜなら、まだ全員が平等に権利を持っているということ自体がそれほど当たり前なことではなかった時代だからです。過去の歴史や伝統を引き合いに出しながら語るという意味では、アイアトンのほうが常識的ですらありました。
アイアトンからすれば、水平派のいう「全員が選挙権を持とう」という主張は、無根拠で意味不明に感じられたでしょう。

クロムウェルはこの2者とは違う意見、「ディスカッションが重要である!!」という主張をしています。

アイアトンと水平派が「誰が選挙権を持つべきか」議論していたのに対し、クロムウェルにとって選挙権の議論はあまり重要ではなく、それよりもディスカッションの重要性を強調しました。

それではこのクロムウェルの主張について、リンゼイの説明を確認していきましょう。

リンゼイによるパトニー討論の解釈


水平派とアイアトンにおける選挙権の対立は、「誰の同意かということについての対立である」とリンゼイは考えます。

アイアトンの「財産がある人が選挙権を持つべきだ」という主張は、すなわち「財産を持つ人々の同意が必要」であるとも考えられます。

同様に水平派は、「全員が選挙権を持つべきだ」という主張は、すなわち「全員の同意が必要だ」であるとも考えられるのです。

つまり、選挙権を誰に与えるかという議論をしている時点で「民主主義とはアグリーメントの問題である」ということができます。

これらに対して、クロムウェルは、アイアトンや水平派とは全く異なっていると考えられています。それは「民主主義とはディスカッションの問題である」ということです。

リンゼイによるパトニー討論の解釈

あまりに唐突な意見ですが、クロムウェルにとってディスカッションはとても大切なものでした。リンゼイもまたこのクロムウェルの考え方に民主主義の源流を見出します。

例えば、ある国のある政策について、それが民主主義的に決まったと考えるかどうかについて考える場合を例に取りましょう。
「民主主義とはアグリーメントの問題である」と考えるのであれば、「国民がその政策に同意している」ことが民主主義的であることの根拠になります。
「民主主義とはディスカッションの問題である」と考えるのであれば、「その政策が決定される過程で、国民の討論があった」ことが民主主義的であることの根拠になります。

一見それほど違いがないようにも思えますが、①は「同意があったからこそ民主主義的だ」という論理であるため、政治的決定について完全な同意が取れないケースをうまく説明できません(現実の政治にはつねに一部そのような人々がいるはずです)。
例えばリンゼイは、民主主義を同意の原理だけで推し進めていくと、「1人でも同意しない人がいる政策は実行できない」という極端な意見に陥る危険性があり、それはおかしいだろうと言います。
それに対して、②ディスカッションを重視する立場というのは、「たとえ全会一致にならなくとも、異なる意見を持つもの同士も全員で討議した結果生まれた意見のはずだ、だから民主主義的なのだ」と考えるのです。

なぜクロムウェルはディスカッションを重要視したのか。なぜ民主主義の源流だと考えられるのか。

さて、ここでいよいよキリスト教的な世界観が関わってきます。

民主主義の目的は、「神の意志」を見つけ出すこと!?(クロムウェル)

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