病と戦のあいだには−−カミュ『ペスト』論考−−〈11〉
カミュの作品について語られるとき、『異邦人』における個人的不条理から『ペスト』に描かれる集団的不条理への展開、という論点において取り上げられることは多いし、カミュ自身もまたそれは、自覚的に意図しているところでもある。
「…『ペスト』は、同じ不条理に直面した個々の観点の深奥の等価性を描いている。…」(※1)
ところで、『異邦人』のごく初期段階でのメモとして、カミュはこんなモチーフを書き残している。
「…普通ひとが営んでいるお定まりの人生(結婚、地位などなど)に人生を求めていた一人の男が、あるとき突然、モードのカタログを読みながら、いかに自分がその人生に(つまりモードのカタログのなかで尊重されているような人生に)無縁だったかに気づく。…」(※2)
自分自身が生まれて生きて暮らすこの世界で、その自分自身が築き上げていくことになる人生に、まさに自分自身であることの意味を見出す。そんな当たり前の、誰でもしているようなことが、しかし自分自身には本当のところにおいて、どうやら全く「無縁」なものであったらしいということに、自分自身としてある日突然気がついてしまうことになる。こういった心性というものは、実はむしろわれわれ自身の誰もが少なからず、それぞれ自分自身のこととして感じる瞬間があるものではないだろうか。
リウーの言葉の端々から窺える、彼自身の暮らす町オランに対して、いやもっと大きく「この世界そのもの」に対して感じている、ある種の「縁遠さ」というものは、しかし感覚としてはけっして不自然なものではないし、またそれ自体「病」と言いうるようなものだというわけでもけっしてない。もしそのことに、自ら何かしらの「意味」を与えようというつもりがないのであるならば。
実際このような「意味」というものは、結局いつだって自分自身の「外から」やってくるものなのだ。そしてリウーにとっても、あるいはオランの人々にとっても、まさにそれがペストなのだった。
ペストは、人々を世界から隔絶し、あるいは世界との間を遮断し、誰も彼も例外なく、その世界から「無縁」な者にしてしまう。しかしもしペストがなかったら、どうだったのだろうか。それでも「彼ら」は人知れず、また自分自身でも気づかずに、それぞれがバラバラに、この世界から無縁な者となっていったのではなかっただろうか。
リウーは一体、どうだっただろうか。もし、ペストがなかったら?きっと彼は、しがない一人の町医者として、いつも何とはなしに感じられてならない、この世界と自分自身との、どうにもならない相性の悪さに戸惑いと諦めを抱きながら、それでもこれまでと変わらずに、その日々の習慣に従って生きかつ暮し、いずれ時が来たら静かにその生涯を終えたことだろう。とすれば彼もまたやはり、たしかにオラン市民の一人なのだ。
そんな彼らの頭上に、ペストが突如降ってきた。彼らはもう、気づかずにはいられなくなった。ペストによって世界から隔絶されながら、しかし逆に、もはや誰一人として、この世界と無縁ではいられなくなったのだ。
〈つづく〉
◎引用・参照
※1 カミュ「手帖2−反抗の論理」高畠正明訳
※2 カミュ「手帖1−太陽の讃歌」高畠正明訳
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