お互いをわかりあうとは共有認識を増やすこと

今日講義で少し面白い事があった。


その時の講義は
終わった後にリアクションペーパーを
各自提出する方式だ。

私は授業を聞きながら終わらせていったので
一緒に受けている友人よりも
かなり早く書き終わらせた。

しかし私はまだ書き終わっていない友人に
苛立ちなどの感情は抱かなかった。

それは私が別の友人の考え方を
リスペクトして真似ているからだ。


その考え方は主に遅刻される時に用いる。

遅刻をするということは
見方を変えれば自分の時間が増える。

すなわち相手が来るまでの間
好きな事ができるのだ。

やらなければいけない事や
読書やニュースをみるといった
自分のためになることまで出来る。

そのためその友人は
遅刻してくれたら自分の時間が増えるので
遅刻に対して感謝の気持ちを持っていた。

私はこの考え方にひどく感服し、
真似しているのだ。


その考え方の甲斐があってか
私は興味深いコラムを見ながら
余暇を過ごす事ができた。

しかし肝心なのはここからだ。

彼がリアクションペーパーを
書き終えた時、
私は彼の分も一緒に提出しようと思った。

それは彼の荷物がまだ机上にあり、
カバンにしまうために時間が
少々かかると考えたためだ。

もし彼が提出しに行けば
私と彼はは提出しにいっている時間、
荷物をまとめる時間を要することとなる。

荷物をしまい終わった私が提出すれば
彼はその間荷物をしまう事ができ、
時間に無駄がない。

非常に合理的な行動選択と言える。


そして私は彼の分も提出しようと
立ち上がりながら提出しに行くと言ったが
彼はそれを断り、自分が出しに行くといって
私の分も一緒に持ち提出しにいった。

きっと彼は私を待たせた罪悪感から
私の分まで提出しにいったと考えられる。

だがすでに述べたように
私に罪悪感を感じる必要はない。

彼は一般論から導かれた
虚像に対して罪悪感を感じていたことになる。


私は提出しに行く彼の背中を見ながら
合理的と倫理的との差を実感していた。

確かに私が彼の立場だったら
同じように行動したことだろう。

待たせている立場なのに
提出までさせてしまっては
なんとも偉そうな態度だ。

そのため彼が行った行動は
とても倫理的であり、
そういった面で見れば良い行いだろう。

しかしそれは一般論のフィルター
見た場合の判断だ。


私のフィルターで見れば
私が提出しに行く方が
合理的で正しい行動になる。

だが、合理的な判断が常に
良い行いとは言えない。

実際に私が提出しに行った場合を考える。

彼は私がこのような思考をしていると
知らないためより罪悪感を覚えるだろう。

もしかしたら彼からすると
私の行動は当てつけに感じるかもしれない。

すなわち彼は私が提出しに行った行動が
合理的だとわからない可能性がある。

もし私が提出する時に
「提出しに行っている間に荷物まとめといて」
と言っても合理的と認識しないだろう。

ここに合理的と倫理的との
力関係が垣間見える。


その人の性格にもよるが、
基本的に倫理、感情の方が
合理的、論理的なものより強いだろう。

人間というのは感情が付きまとうので
負の感情を持ちたがらない。

そのため合理的な判断をして
嫌な気持ちになる場合は
合理的な判断を避け、
感情を優先しがちだ。

私が筋トレをした方が良いと知っているが
面倒という感情を優先してやらない、
早起きをした方が良いと知っていても
中々できないのはこれが原因の一つだろう。


そして今回の話から
次のような事がわかった。

もし倫理的な行動の逆が
合理的な行動な場合、
(すなわち今回の話で言えば
彼が提出しに行くのが倫理的、
私が提出しに行くのが合理的になる)
その倫理の霧に覆われて
合理性が見出しにくくなる事だ。

よっぽど合理的な人でない限り
こうなるのは理解できるだろう。


もしこれから同じような状況になるのを
懸念するのであれば、
私のこの考えを彼に伝え、
共有認識にすべきであろう。

そうすれば罪悪感を感じる事はないはずだ。

その前に私の考え方に
同意してくれなければならないが。

やはり個人の考えははっきり伝えなければ
あまり意味がない。

相手からしてみれば
いくら考えていようとも
わからないのだから。

そういった共有認識を増やす事が
互いをわかり合うことになるのだろう。

そうすれば説明などしなくても
罪悪感などの感情を感じずに
相手の行動を受容出来るからだ。

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