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noteで過ごした1年
昨晩ぶりの方も、初めましての方も、それ以外の方も、こんにちは。
目に留めていただきありがとうございます、みうです。
私事ですが、昨日で毎日投稿365日目を迎えました。
何かを続けること、「毎日ちょっとずつ」が大の苦手だった私が、まさかの。
皆さまの支えあってのことです、本当にありがとうございます。
…ということで、今日は「noteを365日続けるとどうなる?」というテーマで、これまでのこ
誰かを信じたり、好いたり、その他。
誰に教えられるでもなく「嫌いな人とは無理に付き合わなくていい」という意識を昔からもっていた私は、嫌いな人に対して見せかけの笑顔を振りまいたり、「みんな仲良く」をスローガンに掲げたりすることもなく過ごしてきた。
私が悩みたいのは、自分の嫌いな人に対してではなく、自分の好きな人に対してだった。
大切にしたい人をどうやったら大切にできるか。
もっと仲を深めたい人のことをどうやったら理解できるか。
あ
謙虚な人、そうでない人
やっぱり、謙虚に生きていたいよね、と思う。
それは、自分を下げることで相手を上げるというよりは、同じ目線でいながら思いやりをもつことであり、
たとえ社会的に上の立場に立ったとしても、決して見下すようなことはしないということであり、
一つ他人を巻き込む欲を言えば、誰かを陰ながら支える存在でありたい、ということだ。
◇
私の思う「謙虚でない人」というのは、あからさまにわがままを言うような自己
「人と分かり合えない」と嘆く私へ
「人と分かり合えない」のは、自分の世界を本気で語り合うことを恐れているからだと思う。
昔のことを思い起こしてみる。
どれだけ歩み寄ったつもりでも、言葉の裏をも汲み取ろうと努力したつもりでも、相手は私のことを分かってくれないし、同様に相手のことを分かりきれてはいないだろう。100%の相互理解はそう簡単に実現しないと思っていない自分もいるけれど…。
私は孤独なのか?
そんな疑問を抱いたその日から
すくわれた人間の末路
5月の初めから、いやずっと前から、このエッセイを書くかどうか迷ったり迷わなかったりを繰り返していた。
つまり切り捨てられない思いがあるということである。それは後ろめたさかもしれない。謝罪かもしれない。怒りかもしれない。嘆きかもしれない。
せっかくの機会をいただいたこともあり、自己解決しない根底を、「私らしいが、私らしくない」この迷いを、この場所に残すのもたまには悪くないと思った。
◇
ここ