Simplifier
"人生はシンプルなものである"
"人生が複雑に見えるのは、自分自身が人生を複雑に考えているから"
つい最近までアドラー心理学のそんな基本的な考え方すら知らなかった私だが、初めてその言葉を聞いた時、「まあ、そうだろうな」という妙な納得をした。それとともに、「みんなそうなんだな」「それが普通なんだな」という気づきを得た。
自分自身が人生を複雑に考えている。
それはどうやら私という人間の一個体に固有の特性などではなかったらしい。
アドラーの言うことに近いことに気がつかされていたのは何年も前のことのように思われるけれど、それを初めて少しだけ実践することができたのはつい1年ほど前のことだった。
過去に辿ってきた「アクシデント」、それに対する当時の自分の判断を肯定し、「そういう過去」としてだけ捉えられるようになってから、随分心が軽くなった。
それから紆余曲折あったが、心は、まあまあ軽い。とりあえずそれができるようになっただけで、私には大きな武器が備わったような気さえした。
そう思えてしまうほど、昔の自分は脆かった。
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気がつけば、私の周りにいる人はみんな、私の人生をシンプルにしてくれる人たちばかりだ。
今でも私が自発的に繋がっていたいと思えるようなこれまでの友人たちだったり、この場で出会った人たちだったりする。
たとえそれが(アドラー曰く)人類共通の特性だったとしても、私は未だにどうしても、「その傾向が人一倍強い人間」というラベルを自分に貼らないと生きていけない。
だとしたら、私に本当に必要なのは、「自身の人生をシンプルにしてくれる人たち」なのではないか、と気が付いた。
そして結果、今自分が繋がっていたい、あるいは居心地がいいと思える人というのはほとんどその部類に属しているのではないか、と考えている。
自分は自分自身でその人生を複雑にしてしまうのだから、周りにいる人たちは、それをさらに複雑でなくシンプルにするように引っ張ってくれる人たちであった方が、何かのバランスが取れるのではないだろうか。
自分自身も周りも自身を複雑にしてしまったら、それこそまさにシンプルに考えることを忘れてしまう。
何年か前の自分にまた戻って、迷宮入りしてしまう。
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人生をシンプルにしてくれる人というのは意外と身近にいるもので、単に自分が気づいていなかったり、社会的関係から距離を置いていたり(近づける必要がないと思っていたり)していたらしい。
ちょっとした気遣いが溢れていたり、素直さが行動に表れていたりする人を目前にしてこんなに尊いと感じられるのは、おそらく、そういった人の近くにいることにこの上ない居心地の良さを覚えているからなのだと思う。
どうにもこの1年、荒波の中で生きてきたように思えて仕方ない。
価値観が壊れそうになるくらい強い衝撃から自分自身を守るので精一杯だった。守っているつもりでも、光を装った影に侵入を許している気がして、守っているのは本当に当初の自分か?と疑わざるを得なくなった。
否定する気は全くない、自分には向いていなかった、自分にはまだ早かったというだけだ。
でも、私が今隣にいて心から安心できるのは、本音や建前という言葉は知りつつも、いい意味でそんなことを考えずに素直に日々を送っているような、そんな優しさの持ち主なのだと思う。
私もそういう人になれば、誰かにとっての"Simplifier"になれるだろうか?