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平和主義者の覆面

生きていればいいことも悪いこともあるわけで、自分の中での永遠の信条になるほどの幸福があれば、気がつかないささやかな幸せもあるし、おいしいものを食べれば復活する落ち込みがあれば、何年という単位で苦しんでしまう絶望もある。

幸せや落ち込み、つまり小さな心の動きは、私たちにとって一番身近だ。
身近な分、気軽に誰かに伝えられる。

一方、幸福や絶望という大きな心の動きは、人に言い出すまでが長いことが多い。言いたくないという人も多いだろうし、言いたくても言えないまま何かの終わりを迎えてしまう人もいるだろう。

私は、そういった幸福や絶望をあまり人にぶつけてこなかった。

ぶつけることで壊れる可能性があるなら、自分のうちにとどめておきたかった。

「こんなにいいことがあった!」と言って、それに否と言われること。
「どうしてこんなにつらいんだろう」と言って、それに否と言われること。

誰かに否定されて崩れていくことに怯えていた。

そのためか、何を考えているのかよく分からないと時々言われる。
本音でぶつかるのも、ぶつけられるのも、なんだか物凄い遠心力でお互いのエゴがぶつかるような気がして、避けていた。
そんなぶつけ方しなくたっていいでしょう、と平和主義者の覆面をかぶっている。

それでもいつかは避けられない人間同士の衝突。
記憶に新しいのは昨年秋のことだ。

あまり馬が合わない(と見なしていた)人と改めて口論になるというのは、思考も心も一瞬で擦り減るものだった。

落ち着いて相手のことを受け入れながら理解できる点に達しようと努力しているのだが、ちょっとずつズレていくうちに「モヤ」が溜まる。

やがて落ち着いて考えようとすればするほどじれったくなって、「モヤ」が爆発するとき、私はようやく絶望をぶつけた。


いいよ、分かってほしいという私のエゴにすぎないんだから。
分からないならそれでいいから、もう何も話さないで。


分かりたい、分かってほしい。たとえ馬が合わないとしても。
そう思っていたものを真逆に転換して、絶望を突きつけ、私は去っていった。


相手から返ってきた言葉は、その転換のしようへの戸惑いだった。必然の結果だ。
でも、張り詰めていた糸はぷつりと切れてしまったし、突きつけた絶望は元に戻すことができなかった。見なかったことにして、なんて言えるはずもない。

捨て台詞はいつだって絶望だ。



そんな醜い捨て台詞は戸惑いのタネでしかなかったのだろうが、相手が私の絶望を実際どう捉えたかなど知る由もない。
もうとうにこんな出来事も私の存在も忘れているのだろうと思ってしまうのと対照的に、今でもこうして疼いてしまう自分がいる。

ぶつけることで壊れうる絶望は自分のうちにとどめたいと思っている私だが、その時ばかりはそうしなかった。

どうか、この人は賢い人でいてほしい。
いつかでいいから、どうか、この絶望を分かってほしい。

そんなふうにどこかで期待を込め、絶望を全力でぶつけた。

案の定崩れた。
でも、崩れたときにはもう私は後ろを向いていて、その様子は見なかった。

幸福や絶望をぶつけるのは、相手を信頼しているからだと思いたい。
私の場合のように、信頼したいと期待を込めているから、でもいい。

信頼できない人や信頼したくない人に対して自分の深層など見せびらかしたくないのだ。

いつも否定から入る人や、なんとなくいけ好かない人には、誰だって自分の幸福や絶望を語りたくはないだろう。


まったく知らない人に対しての方が自分の深刻な悩みを話しやすいという一説には、きっとそういう要因が関わっているのだろうな、と思う。


そう考えると、どんなに親しい仲でもなかなか幸福や絶望を語れないのは、親しさと信頼とはまったく別のものだということを意味するだろうか、とも。


そんなことを考えながら、私は今日も平和主義者の覆面をかぶってしまった。
小さないさかいではある。いやこれはいさかいにも満たない、絶望ではない落ち込みだ。

「まあまあ、仲良くしよう」なんて言うような、絵に描いたような穏やかな覆面ではない。覆面を外すたびにそう思うのだ。

けれど、「これしか持ち合わせていないから」と言うばかりで、覆面なしでぶつかり合うことが視野にない間は、きっと私はこのままなのだと思う。