弱さを免罪符にする前に
人は誰でも弱さや脆さを抱えているというのは当然の話である。
一見強そうに見える人も、いつも気丈に振る舞う人も、毎日快晴のもとで陽の光を浴びて前だけ向いて歩いてきたなんてことはないだろう。
その「脆弱性」を逆手にとって、周りに振りかざす人がいるのも真実である。
つまり、弱いふりをして周りを支配するということだ。
「弱者マウンティング」と言うらしい。
ここでは、「自分の方がつらい」と周りに押し付けることと、「弱いのだから守られるべき」と唱えることの両方について考えてみることとする。
どちらも弱さを振りかざして周りの行動や考え方を変えるという観点においては、あまり大差はない。
「私は弱者なのだから、…」
「これほどの脆さを抱えているのだから、…」
「あなたより私の方がつらいのだから、…」
その条件だけで他人を支配できると思い込んでしまう。
私の場合はどうだっただろうかと振り返ってみる。
自分が抱える弱さや脆さとは何か。それをどの場面で誰に打ち明けたか。
記憶を辿っていくとどうやらそれはこのnoteの場がメインのようだが、具体的な誰かに宛てたものでもないし、だから何を周りに求めているわけでもない。振りかざしてはいないかなあ、と言う結論に至った。
そもそも、正直な話、私は自身を弱者だとはあまり思わない。
でももしかしたら、どこかで弱さを振りかざす暴力を振るっているのかもしれない。「加害者」側が無自覚になりがちなのは摂理だ。その覚悟で書いている。
私の話はさておき本筋に戻る。弱さを振りかざした時点でそれはきっと弱さではないのかもしれない、と思っている。
それは、弱さを武器にしているからだ。
ほら、自分はこんなに弱い。だから酷なことから目を背ける権利があるよね
弱さは免罪符ではない。
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何も、弱さにまつわるエピソードを披露するなということではない。むしろそれを誰かに語れることは素晴らしいことだと思っている。
もちろん、「誰かに本当の私の気持ちを伝えたい」という熱い想いがあるという点、そしてそれを受け止めてくれる環境があるという点において。
(そういう前向きな気持ち、そういう環境がいつでもあって当たり前と思い込むのはちょっとばかり危険である。)
自分が言いたいのは、弱いものが守られることの本当の意義を蹂躙してはいけないということだ。
弱者マウンティングという言葉が出てきた以上、本当に声をあげたくてもあげられない環境ができてしまう。
「もしこの場で私がつらいと言ったら、周りはどう受け止めるだろうか」
「私の方がつらい、と否定されるんじゃないだろうか」
「弱者だからって甘えようとしていると誤解されるんじゃないだろうか」
そんな不安で押しつぶされていたら誰の心も窮状に持ちこたえられない。本来誰かに語らなければ発生しない懸念というのはコストが嵩むし、一番鬱陶しいし、一人で溜め込んでしまう原因になる。
弱いものは守られるべきという社会通念は、独立して保たれなくてはいけない。
誰だって歩き始めたばかりの子どもは守られるべきだと思うだろう。それと同じくらいの普遍性を伴って、独立しているべきだ。
弱さを免罪符にして不当な自己保身をすることが、世間の寛容さを、誰かの自由を損なっていく。
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弱者マウンティングを目の前にしたときのことを思い返してみる。
細かいことは省略するが、それは明らかに弱いことを言い訳にしていると言う勇気も出なくて、結局代わりを担ったのは自分だった。
弱さを振りかざす暴力をふるうくらいに物事を考える気力も体力もあるくらいなら、弱さを引き合いに出さずに正直に言えばいいのに。
そう思ってしまったというのが本音だ。
もちろん弱さを振りかざす側も、きっとその人の事情があるのだろう。純粋な自己満足だけでそうしているとはあまり思わない。
そうでもしないと誰かに認めてもらえないという漠然とした不安から、最終手段として無意識のうちにそれを選んでしまっている可能性があるだろう。
しかし、ひとたび弱さを振りかざしたことで周囲からそういう目で見られたら、ますますその人の肩身は狭くなる。弱さの暴力はどんどんエスカレートし、孤立してしまう。
その行動が、未来の自分を本当に救うのか。
その行動が、自分ではない誰かを犠牲にしないか。
その行動によって「罪を免れる」ことへの後ろめたさはないか。
弱さを免罪符にする前に、ちょっとだけでいい、立ち止まるべきだ。