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誰かを信じたり、好いたり、その他。

誰に教えられるでもなく「嫌いな人とは無理に付き合わなくていい」という意識を昔からもっていた私は、嫌いな人に対して見せかけの笑顔を振りまいたり、「みんな仲良く」をスローガンに掲げたりすることもなく過ごしてきた。


私が悩みたいのは、自分の嫌いな人に対してではなく、自分の好きな人に対してだった。

大切にしたい人をどうやったら大切にできるか。
もっと仲を深めたい人のことをどうやったら理解できるか。
あるいは、一度は親しくなった人と距離を置きたくなったときの葛藤。

そういうことばかり考えていた。

自分に意地悪を働く人には特に何もしなかった。
何度遠ざけても近づいてくる人にはいつか関係が切れるまでと待ちわびながら、頭の表面だけで会話していた。
私に無神経な気持ちばかりぶつけてくる人からの言葉は極力回避し、回避しきれなかった分はあとで一人で泣いて癒した。
その程度で十分だった。

でも、それだけで生きるのは難しいことを知った。
時には自分が嫌いな人とうまくやっていかないといけないし、自分の心の持ちようによっては「どこに行ったって自分の嫌いな人がいる」という先入観が私の周りを囲っているときもある。

自分の好きな人ばかりに囲われて生きていられはしない。
好きがあるから嫌いがある。好きな人がいれば、嫌いな人も必然的に現れてくる。

自分に直接関係あるかないかにかかわらず、この世の中にはたくさんの人がいる。

彼ら彼女らの姿は私にとってはそう見えているだけであって、本当は違うのかもしれない。
だからその人とのうまい付き合い方を考えるようになった。多少はマシな判断だろうか。
たとえ嫌いに見えても、苦手に見えても、条件反射的に遠ざけてしまっては私はただの自己中で視野の狭い人間になるばかりだと分かっている。

そうするとあの人のことも信じよう、この人のことも信じようとなってくる。
きっと私の目が歪んでいるのだと思って、まっすぐ見ようとして目を細める。人のいいところばかり見える人が、本当に羨ましい。

おそらくそれがきっかけで、私は人の性格や振る舞いの根底ばかり見るようになった。

この行動をしているのは一体なぜ?誰のため?
あの言葉の真意は何?そうなるとあの言葉は嘘か建前か?

前に少し書いたところの「優しさ」とか、情状酌量とか、そういう話である。

不思議だ。全然人のことが信じられないからぶつかり合うのが怖いと言う反面で、信じようとする気持ちは仮にもあるらしい。

「嫌いな人とは無理に付き合わなくていい」という言葉に甘えないように。
そう思い始めたら、みんなを好こうとしていた。

結局そこから深い関わりを通じた数人が、ぽろぽろと「好き」から「無関心」の枠へとこぼれていった。数えるほどしかいないけれど。

今思えば、「嫌いな人とは無理に付き合わなくていい」という私の中で生まれた信条は、いつのまにか呪縛になっていたようだ。

だから、ある人が枠からこぼれたときにものすごく罪悪感が芽生えるようになった。
今まで散々書いてきた内容とは矛盾するが、実際、人に対して無関心に振る舞うこともそれはそれで労力を使うのだ。

「嫌いな人とは無理に付き合わなくていい」より「嫌いな人とは無理に付き合わなくていい」として、その「」の一言を大事にしながら柔軟に生きてきたなら、たどり着いた未来は違っただろうか。

そんな空想話を考えてしまうのは後悔のせいではない。結局は、私が今大切にしたい人にどう向き合えばいいかというヒントを探すためである。
その部分はいつだってブレないらしい。