優しさという凶器
優しさのある人ほど、誰かに対して深く影響を与えることができると思っている。
相手のことを熟知しているのだから、相手の心の動かし方を知っている。
大袈裟に言えばそういうことだ。
優しさという言葉は聞こえもいいし、私も優しい人物になりたいと思っている。しかし、優しさというものは随分と危険なもののようにも思える。
場合によっては相手を深く傷つけてしまうことがあるからだ。
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もちろん初対面の人や関係の浅い人に責め立てられるのも決して心地のいいものではない。理不尽な扱いを受けるのはいつだって屈辱的だ。
けれど程度によっては、もしかしたら、「あの人とはあまり親しくないから、自分のことを知らないだけだ」と思えるかもしれない。「理不尽には取り合わない」というスタンスを明確にもっている人には些細な問題ですらないだろう。
それに比べて関係が親密になってくると、お互いに良くも悪くも優しくなる。互いの考え方や感じ方がなんとなく分かってくる。何をされたら嬉しいかが分かるのと同時に、何をされたら嫌なのか、悲しいのかも分かってしまう。
一時期は親密になったけれどその後不和があって、もう金輪際会いたくないということになった場合、その優しさは凶器に変わっていく。
相手を傷つけることを悪とするなら、それは優しさの悪用とも呼べる。
優しさを悪用された本人は裏切りや失望を植え付けられる。それまでは一体何だったんだ、と虚ろな気持ちにもなるだろう。
「そんなことをする人なんていない」と昔の自分は思っていた。悩むことを繰り返して優しくなることに負の側面なんてないと思っていた。優しさは世界を救い、その世界に包摂された私という個人をも救ってくれると思っていた。
実際これまでたくさんの人の優しさに救われてきたけれど、断言はできないみたいで。だから今日こうして文章を書いている。
人は自分の知らないところで誰かを傷つけてしまう。
良かれと思った優しさが、誰かの尊厳を傷つけてしまう。
いや、あの人は、そんなふうに表では言うだけで、最初から傷つけるつもりだったのかもしれないが。そんな彼らや彼女らとの思い出は、今やどうでもいい。
◇
深く尊敬していた人や大好きだった人に対してそれとは真逆の方向の感情を抱き、関係を断つことを考えるとき、心の中で考えていることはけっこう辛辣で残酷だ。
逆に、対して気にもかけていない人に対してはぞんざいな反骨ばかりを掲げている。なんだか情けなくもなるくらいペラペラで貧弱だ。
相手に向ける言葉が残酷であるのは、それまでひたすら向き合って、理解を深めてきた証なのかもしれない。
私はいくら平和主義者の覆面をかぶっているとはいえ、もうこれはだめだと思ったときには、その優しさで相手を殴ってしまったことが何度かある。
その度に、殴ってしまった後の虚しさに鈍感でいるために自分を正当化していたようにも思える。
強力な味方になってくれるであろう誰かの言葉だけを聞いて、勝手に勇気をもらい、励まされていた。
自分が人にされた痛みと直接関係なくても、似たようなことをしていたのかもしれない。残念ながら、それは無自覚に、本能的に。
◇
多分、優しいだけでは足りないのだろう。
優しさに加えて、その優しさがいつか自分でも気づかないうちに凶器に変わる可能性があることへの覚悟が欠けているのだろう。
裏切られた気がして心の中で誰かを憎むのは正直に言って自分の自由だ。
でも、無責任だと批判したその責任は、相手が勝手に生成して置き去ったものではなく、私が勝手に投げつけたものかもしれない。
相手に覚悟を求めるなら、自分だってそのくらいの覚悟は言われずとももっていないと、気がついたら覆面すら被れなくなっているに違いない。
でもだからと言って「じゃあ、そもそも人と理解を深め合うことなんてしない方が気楽じゃない?そっちの方が良くない?」という方向に流れるのは、何か大きなところを履き違えているし、現実私にはそんなことはできない。
見かけ上の"楽"に安易に逃げるのは後悔のもとだ。