一瞬の燦たる輝きを

思ったことを何らかの形で残すこととは、当時の自分を生かしておくことだと思う。
文章でも絵でも写真でも音楽でも何でも、自分の一番好きなもので、保管できる手段なら何でもいい。

いくら昔のことを覚えていると言ったって、それを原動力にして今があると言ったって、すべては現在・将来と対比される過去の出来事。自分が生きている以上、どんどん遠ざかってしまう。

形に残さないことが死だとは言わないが、残しておくことには必ずいつかそれなりの価値が伴うように思える。



自分の価値観の中に「『期待』、『信頼』への嫌悪」があると気がついたのはかなり前のことだった。
そこで、嫌うものではなく求めたいものを明らかにしようと思って模索していたが、それが「安心(余計なことを何も考えなくていい)」であることに気がついたのはここ1週間ほどのことだ。

それが「気付き」から「確信」に変えてくれたのは、昔の私が残してくれた短い物語だった。
今日はそれに触れながら書いていこうと思う。

その物語というのは、自分が中学3年生だったときに書かれたものだ。
具体的には8月から10月、すなわち受験勉強真っ只中である。
(あんな時期に物を書くゆとりがあったのか…?)

言葉こそ拙いが、そこに表されていた言葉は当時の気持ちをありのままに表しているように思えた。

人なんて、どうせそんなものさ。
人生という道なんて、どうせ。
その道をいかに進むかなんて、個人の自由だ。
なのにどうして、こんなにも苦しまなくちゃいけないんだ。
どうして、こんなにも淋しい思いをしなくちゃいけないんだ。
どうして、こんなにも激しい怒りを誰にもぶつけられないんだ。

(中略)

陥ってしまったんだ。どこかで道を踏み外して、そのままだ。
這い上がりたいとも思わない俺は、重症か。

そんなの、どうでもいい。
もう、何だっていい。
関係あるが、興味はない。

(随分と悲観色の強い一節)


抱えている悩みは違うにしても、今の自分が同じようにこんな言葉でぶつけられるだろうか?


今の自分としては、最後に書かれた「関係あるが、興味はない」がもっとも痛切な一言である。

興味がないのに向き合わなくてはいけない、こんな思いは手放したいのに手放すことは許されない、関わりたくないのに巻き込まれてしまう。

「嫌」なのに逃げることができない自身にもまた、葛藤するうちに興味を失っていたのかもしれない。ちょっと大げさかもしれないが、当時の自分は賛同してくれるような気がする。


この一節から考えることは他にもあるが、これを今を起点として考えてみると、今私がしている行動もまた、いつかの自分が振り返って何か気づくきっかけになりうるのだろうか。
書き留められた大量の思考。ときには取り止めもない一日の日記だったり呟きだったりもするけれど、それすらも何かいいものをもたらしてくれるだろうか。

そうであると期待したい。

やはり私にとって、未来の方向だけ見ていることは難しいようだ。

それは、過去に執着していることの表れというよりは、過去にきちんと向き合わなかった分のせめてもの埋め合わせだと思いたい。
当時得られたかもしれないものに手を伸ばすことはできなくても、今だから得られたものには随分手が届くようになったらしい。

上で書いた言葉の端々には諦めと怒りが見える。
それらと冷静に向き合うにはそれなりの時間を要したように今では思うが、それでも冷静に捉えなおせば5、6年ほどだ。人生100年時代と言われる現代を鑑みれば、そうか、20分の1か。

諦めや怒りに向き合えるようになったのと同じように、今求めている"安心"も、何年かかってでもいい、この手でしっかりと掴もうと気持ちを新たにした。

そしてそこに至るまで、いやそれからもずっと、私の一番好きな言葉という手段で、一時を生きる自分の断片を大切に生かしておこう、そう思った。
苦しさや悩みから、たとえその時々は汚らしく見えたとしても、大切に生かしておく限り、それ自体は輝いているはずだ。


そんなことを考える今の自分が好む、先人の言葉がある。

For one swallow does not make a summer, nor does one day; and so too one day, or a short time, does not make a man blessed and happy.

(一羽のツバメが来ても夏は訪れないように、一日で夏になることはない。それと同じように、一日はおろか一時では、人間は幸運にも幸福にもならない。)

—————Aristotle



とりあえずは、当時の自分を見習ってみたくなった次第である。