ひとの価値なんて

ひとの価値なんて、他人も自分も含め誰かが決めるものではないのだと思いたい。

あくまでひとが決めるのは個人的・社会的な評価にすぎなくて、そのひと自体の価値ではない、と。
ひとの存在なんてあるがままでしかないのだから、とやかく言われて下げられたり上げられたりするわけではない。

いつでもそう言い張れたらそれはそれで羨ましく思うが、とりあえず今の思いを認めておくこととする。

評価には、それを下す人の主観がたっぷり詰め込まれている。

所詮「お前は駄目だ」なんて言われても、その言葉の主がそう思うから「私=ダメ」になるわけであって、必ずしも本質としての価値が「ダメ」になったわけではない。

もちろんそんな心ない言葉をかけられた当事者の立場に立ってみると、論点はそんなところではないと言いたくなる気持ちも十分に分かる。
今までいい関係にあった人からそう言われれば、気になるのは自分の評価や価値にとどまらない。
それまでの過去、その後の生き方、自分の立ち位置。色々と疑ってしまい、何が信じられるのか分からなくなることもあるかもしれない。

あの人にダメだと言われた。本当にダメなのかもしれない。
そう思うのは真っ当なように思う。

その揺らぎに身を寄せるしかないというある種の緊張は、本当に苦しくなる。分かっている。この文章を書いている私だって、あんな緊張はもうしたくないと心から思うのだ。

全否定でもされれば、前向きだった自己評価だって再検討しなくてはいけなくなる。

もちろんいい評価をもらったときには喜ぶし、厳しい評価をもらったときにはつらくて心が折れそうにもなる。一人では生きていない以上、そして自分が自分の人生を生きている以上、評価という正直なものからは避けられない。

いつだって私たちは評価から逃げて来られなかった。勉強の出来から友達の数まで、最近は非認知能力に至るまで、何もかもが測られる。
これをしなければ現実的には大量の問題に直面するので、仕方のないことではある。
(それにしたって友達の多さで性格をむやみに測られるのは御免だ)

それゆえに厳しい評価をもらったときには孤独にもなる。一生懸命に努力した結果がそうなれば「何もうまくいかないや」と投げ出したくもなるし、ぐんぐん力をつけていく周囲に取り残されてしまえば「どうして自分だけ」という疎外感と無縁ではいられない。


または、誰かからの評価と別の誰かからの評価が真逆で混乱することもある。称賛される一方で言われたい放題、なんてしばしば起こりうるのではないだろうか。

主観で評価し合う私たちにとって、「本質としての価値は誰に何を言われても不変だ」とか「自分で自分の価値を下げるな」とかそういう言葉は、ひょっとしたら耳を塞いでいた方が都合がいいのかもしれない。

人はそれを綺麗事と呼んできた。私も呼んできたし、矛盾しつつも今でも心の奥底でそう叫んでいる気もする。

でもこうして比較的真っ直ぐ立っていられるうちに書くなら、やはりひとの価値なんて誰かが決めるものではないよなあ、と思ってはいるし、そう思い続けていたい。


誰がなんと評価しようと、ひとの価値はいつだって不変だ。
そう思ったら、もう少し真面目に自分に向き合ってみようという気持ちになれるだろうか?