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むるめ辞典–日々−

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2020年4月の記事一覧

むるめ辞典

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■機械

[読]きかい

機の械

[例文]
左手の中指に爪のない友人がいた。幼い頃に布を編む機械に指を巻き込まれて以来、爪が生えてこないのだという。彼の家の敷地には2つ並んだ工場があり、そのうちの一つで事故が起きたらしい。

サッカースクールの始まる前の時間をこの家で過ごしていた私たちに「工場には立ち入らないように」と彼の親は厳しく言いつけていた。

工場が休みの日に一度だけ中に忍び込んだことが

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■緑道

[読]りょくどう

緑の道

[例文]
未来へ続く長い一本道みたいな緑道を、キックボードに乗ってすいすいと先に進む娘の背中が少しずつ小さくなっていく。

路肩に並べられた背の高い木々が、腕を伸ばすように作ったアーチから漏れた光を、道路はかすかに受け止めていて、枝葉の影をアスファルトに映し出している。

彼女が遠く離れていく後ろ姿を目で追いかけていると、伸ばした手も呼ぶ声も届かなくなるであ

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■空雲

[読]そらぐも

空と雲

[例文]
壁あてで割ったガラスの枚数が手足の指だけでは数えられなくなった夏に、製菓企業が主催する子供向けマラソンのイベントが開催された。

会場になった競技場は川と海が交わる河口の袂にあって、気まぐれな風が強く吹くと振る舞われた焼き菓子と磯の香りが交わって不快な匂いを漂わせた。観戦スタンドにいる親たちはハンカチを口元にあてて表情を隠したままおしゃべりに勤しんで

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■夢中

[読]むちゅう

夢の中へ

[例文]

湿気に曇った鏡が冷まされて、次第にくっきりと輪郭を写すように自分の立ち位置がはっきり見えるようになってくる。

それは、ある一つの特技について上達すればするほど「私ってこういうものだ」という、開き直りにも似た、ある基準を持ち合わせていくことに似ている。

他人を見ていて、くっきり上下の差がわかった気になるのは、努力して手に入りそうか、そうでないか

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■硝子

[読]がらす

硝の子

[例文]
ささいな一言が誰かの心を砕いたときみたいな「カシャアン」というガラスの割れる音が私たちの血の気を引かせた。

壁あてをしているとボールが塀を超えることがあって、運が悪いと工場の薄い窓ガラスに当たるのだ。

ガラスが割れる度に工場のおばちゃんがやってきて、私たちの親と話し合っていた。おばちゃんは私たちに壁あてを止めろとは言わなかったし、親も叱ったりしなか

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■執拗

[読]しつよう

執に拗

[例文]
繕いの手をつけていないところはない、というくらい朽損した平屋建ての工場には1.6mくらいの高さの塀があった。

近所の子供にとってはこの160cmに身長が届くか届かないかで、大人のようか、そうでないかというのが決まった。それに男にとって、デカイというのは、とにかく大切な意味を持つことだった。

当時、この壁に顎を突き出して背の高さを競うのと同じように

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■指針

[読]ししん

指の針

[例文]

柔らかい布を縫い合わせる針のようにスイスイと淀みなく動きまわる少年だった。

彼はボールを蹴っている時にはいつも笑っていて、年少のチビが彼のボールをとりに行くと、わざと取れそうなところにボールを置いて、その子が足を伸ばしたところでボールを引き、小さい足を空振りさせた。

同年代の子を二、三人と置き去りにしてドリブルで抜いた時には、楽しくて仕方ないとい

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■手紙

[読]てがみ

手の紙

[例文]
父は私が6歳の時に一軒家を建てた。書き出す前の手紙みたいに真っ白な家で、近くには平屋建ての工場と桜並木の美しい公園があった。

同年代の子供が近所で遊んでいた。公園に集まって私を歓迎してくれた彼らは、パッパッパとチームに分かれてサッカーをはじめた。私もその輪の中に入った。

「たか!パス」「たか!こっち!」

最初から全員が私の名前を呼んでくれた。

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■遺伝

[読]いでん

遺す伝

[例文]
母親のことが好きだった。
母親にも子供時代があったというから、昔の知らない母のことを知りたかった。

弟ができたとき母親の胎内でその記憶を共有しているんじゃないかという気がした。

生まれたばかりの弟は私をみて笑っていた。私はずいぶん弟の面倒を見たけれど、結局弟も母親についてはなにも知らないまま生まれてきたのだった。顔だって父親似だった。

とにかく私

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■昔話

[読]むかしばなし

昔の話

[例文]
聡明で背が高くて真っ黒な瞳が白目をほとんど塗りつぶしたオリエンタルの象徴みたいな顔立ちの同級生がいた。

私の友人たちは次々と彼女に挑んでは破れて夢のあとに涙した。一人の男子の涙が乾かないうちに違う男子が涙することもあった。

ほとんどの男子生徒諸君は、高嶺に押し上げられた彼女と話す機会があったり、話さなければならないような状況になると、花の摘み

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■年上

[読]としうえ

年が上

[例文]
年上の女性というのは、いろんなことを教えてくれる。

気の利いたディスりであったり、そういう相手にどういう種類の笑顔を向けるべきかであったり、不倫ドラマみたいに矛盾した感性をドボドボと注ぎ込んでくるような愛情であったり、その対処法であったり、そういった生きるのに役立つ実際的なことは全て年上の女性から学んできた。

その大半は教えるべきことを全部教えて

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■爆発

[読]ばくはつ

爆ぜる発

[例文]
昔の手帳に書き込まれた古い約束が、果たされる見込みのないまま気掛かりにかわって心を刺し続けるので彼女のことをいつまでも忘れられないでいる。

一人暮らしを始めた私のところにやってきた彼女を、ほとんど騙すような形で終電をやり過ごさせて家に泊めた。

カーテンからわずかに漏れた明かりが彼女の起きている気配を浮かび上がらせた気がして、私は何も言わずに彼女

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■灰汁

[読]あく

灰の汁

[例文]
祖父は足の痺れが取れなくて病院に行き、椎間板ヘルニアだと診断された。

彼の逞しい生命力を包み込んだような激しい気質は痛みに追いやられて次第に影を潜めていった。

青白く血の気が失せた顔には皺が深く刻まれた。身体の痛みの引いた後にどんなにこすってみても取れなかった。

声は日に日に小さくなった。これはあとで元に戻ったが、かつての自信を含ませた響きは取り戻

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■繊手

[読]せんしゅ

繊い手

[例文]
襟の形を修正しようと鏡の前に立った彼女のほっそりと小さい手が、いつまでも決まらない形にイライラしながら動いている。

次第に表情にも感情があらわれてきて眉が上がり口元は下がっていった。白い肌になじんだ金の華奢なイヤリングが怒りに震えるように揺れた。

短気な彼女の繊細さはツンとした表情がひとしお似合っていた。私はずっとその様子を見ていた。彼女の襟はい

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