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お読みいただければ幸いです。飯舘村、社会問題、福島の事をそれぞれの想い、個人の想い。
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記事一覧

置き去りのままに

置き去りのままに

福島の表面上の明るい復興の陰で不安で夜も眠れなく過ごす人たちがいるのを貴方は知っているでしょうか?
2011年3月に撒き散らされた大量の放射性物質。直接的な謝罪もないままに6年目の夏が来る。

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自然との対話

自然に言葉があるなら、

自然に思考があるなら、

何を考え言葉にするのだろうか。

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祖父に想いを馳せながら考える戦争

祖父に想いを馳せながら考える戦争

投稿日時: 2015年5月13日 某サイト掲載

今年で戦後70年の時を迎える。

私の中で戦争ということは、物心ついた時から、ごく身近に存在していた。

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曖昧な物質と曖昧な避難指示解除と

曖昧な物質と曖昧な避難指示解除と

昨日(平成28年5月11日)で飯舘村「方部別住民懇談会」(実質的に平成29年3月末の避難指示解除及び平成28年7月1日からの長期宿泊の実施について国に要望したことなどを踏まえての説明会である。)が一通り終わった。日程はたったの5日で、ご都合のつく日や場所にお越しくださいとのことだった。

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【特集 熊本地震:1】私にできること。それは伝えること。

【特集 熊本地震:1】私にできること。それは伝えること。

熊本地震が起きてからずっと自分に何ができるのだろうと考えていた。

そして、今回、ニュースや新聞紙面で見るよりも、自分の目で視てこようと思った。

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山の恵みを奪われた暮らし

2013年10月8日  某サイトに掲載された記事。

今年もキノコの季節になった。飯舘村の避難から2年半が過ぎた。この時期になるといつも悔しい思いが強くなる。

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土地を見て人を思わず

土地を見て人を思わず

今、福島の問題は多岐にわたる。

原発事故処理の問題・避難区域の解除の問題・放射性物質の問題・風評被害の問題。

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みえない社会・地球との対話へ

みえない社会・地球との対話へ

原発事故後、対話を通して自分たちは絶望を受け入れるという心の整理とその場を創る器を2012年~2014年まで作ってきた。

何度も何度も集まっては、自分の今の心をその場に出して、いろんな角度からその心を多角的に見て、感じてきた。

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形ある絶望から曖昧な絶望へ

2011年3月11日、私が住んでいた飯舘村に放射性物質という絶望が降り注いだ。

その時は「生活地帯が放射性物質により汚染され、初期被ばくを浴びた。そして住んでいた土地を離れざるを得ない避難。」 形の見える絶望だった。

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平成29年3月末避難指示解除公表に募る不安

平成29年3月末避難指示解除公表に募る不安

2016年3月23日、飯舘村が帰還困難区域以外の区域を2017年3月末日で避難区域解除、2018年には小中学校を村内で再開することを公表した。それは住民に何の説明もないままでの突然の報道であった。

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原発事故5年は節目ではない。まだまだ続いている現在進行形の事故である。

原発事故5年は節目ではない。まだまだ続いている現在進行形の事故である。

また3月11日がやってくる。

あの日、たくさんの命が津波や地震によって犠牲になった。

そして、その後の原発事故によって、避難先で多くの命が犠牲になっている。

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