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意識的に自分の殻を壊す 私の習慣 その4.33 受験に集中した高校時代の自分を壊ずし自由を取戻した日々 当たり前過ぎて意識しなくなっていること

 生まれてからずっと夢見ていた知的パラダイスたる大学。学生運動の名残が少し残っていて、立て看板も絶滅危惧種ながら若干残っていました。
 そこで意識的に自分の殻を壊し、親の説得も振り切って学生なりの手段で実社会に足を踏み出した話の続編。

経緯
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 ベビーブーム末期で受験戦争と言われた時代。意識的に自分の殻を壊し、バランスの取れた高校生活を選ばず、醜いまでに受験対策するということに。そのソリューションとして選んた駿台予備校が良かった…
 駿台での授業内容は大学での学究生活に向けての準備というスタンスでした。入試なんてその通過点で軽くこなせば良いだけという余裕。感動的ですら有りました。

 その辺りまではこちらをお楽しみ下さい。

 しかし小学生時代、スタートが2年遅れた分を取り戻せず、その2年遅れを最後まで背負って希望の大学に入学しました。そして、弱冠20歳にて4度目の

 意識的に自分の殻を壊す

です。

 入試という他人の決めた知の体系から解き放って自分の知的欲求を基にした学究生活を取り戻す。それを真剣に追求しました。
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 生まれて初めての職業体験。
人生最初で最後の受動的な対応の話です。

 今ではあり得ない昭和のバイトを少し覗いてみて下さい。

 小学生から高校生までを対象にした学習塾、講師は私の所属していた大学だけではなく、都内の国公立大学の学生が広く採用されていました。と言っても男性講師のみ。その意味での多様性はゼロ(笑)。地方から単身で下宿生活をしつつ、仕送りとこの仕事の収入で生活している方も結構いました。また、学校だけではなく学部も雑多でした。ですからある意味でカオス状態。ですが講師同士の交流は盛んで、塾長主催でテニス大会、麻雀大会、ドライブ/ツーリング、そしてお決まりの節目毎の飲み会と盛りだくさん。

 飲み会等は、特に下宿している学生さんにとっては無料同然の参加費で飲食が楽しめたので大好評。自宅から通学していた私は誘われない下宿生縛りの会も有りました。多分野の専門家のタマゴの集合体なので話題も豊富でした。良い知的刺激を受けました。私は当時は(笑)お酒は弱く、専ら食べるだけでしたが、塾長含め酒豪が過半数という感じでした。

 私はしませんでしたが、昭和の時代は大学の授業をサボって雀荘に行ったり、徹夜で麻雀をするという文化?が有りました。特に私の所属していた大学は出席を取らなかったり、紙が回って名前を書くだけ、期末試験で結果を出せば問題無しという合理性もそれを可能にしていました。後に社会人になって入社した鉄鋼会社でも、役員や幹部の中には、夜役員や幹部同士で麻雀を楽しむ様な習慣が残って居ました。私も半年毎更新の契約を2回更新して塾長から信頼される塾のなかよしクラブのメンバー扱いを受けるようになった頃から執拗に(笑)誘われ、とうとうその場でルールの説明を受けて徹夜の麻雀に参加したことが2-3回有りました。しかもビギナーズラックで一人勝ちしてしまったことも…
 人生で麻雀をしたのは今のところその2-3回だけですが。

 塾長は当時は教習所では免許が取れない合格率2%以下の大型二輪車の免許を持ち、大型二輪車を嗜(たしな)んでいました。塾の駐車場にはホンダのCB750Fが鎮座していました。

その後当時の最新最速のVF750Fという水冷V型エンジン搭載ロードスポーツに乗り換えられました。


 しかし数カ月後のある日、塾長室にその二輪車のホイールが飾ってありました。単独で箱根の山道に行かれた時に砂でスリップして転倒されて本人は無事でしたが二輪車は大破したとのこと。何ととても早い2ストの250ccについていけず、限界を超えてしまったとか(笑)。しかしメゲずに程なく何とDUCATIをご購入。

 日本の狭い道にはハンドルのキレ角が足らないだの、故障が多い等と曰(のたま)いながら、楽しそうな顔をしていたのを思い出します。

 自動車では昭和の渋滞の酷さではスケジュールを立て難いものの、二輪車なら早朝出発して箱根辺りをドライブしても夕方には確実に帰宅で可能という安心感が有りました。
 また、同時期に塾長の車も灰色と黒のツートンカラーのガゼールから当時の最高級車ソアラへと。

 そんな塾長主催の日帰り企画には初めは車で参加していました。流石に車は渋滞にハマり足手まとい。後に大学裏の再開発でできた無料駐車場と化した空き地が建設進捗に合わせてなくなったのを期に私も中型免許を取得して二輪車デビューを果たすのでした。塾長のVF750Fに憧れその弟版のVF400Fで。
 しかしVF750Fについて行くのがキツく閉口しましたが、二輪車の楽しさには目覚めました。参加していた他の講師陣は皆さん250ccで揃い踏み。アメリカンもいました。一方自動車組は絶滅し、程なくツーリング会として昇華?されました。(笑)

 思えば1980年代のバイクブーム真っ只中だったので


 テニス大会では、講師だけではなく現役や卒業した生徒さんも一部参加されて和気あいあい。今では考え難いですが特に現役の学生さんとの交流も有ったのは、昭和ならではですが。勿論、親御さんとの日々の学習状況の連絡や定期的な面談等、少人数の学習塾ならではの信頼関係が有ってのことです。近所のテニスクラブのコートの一部を借り切ってのテニス大会、流石に小学生は居ませんでしたが、中学生にもなると硬式テニスにも関わらず、講師をあしらう程上手な人も居て驚かされることもしばしば。今では考えられないおおらかなひと時でした。

 そのおおらかさはこの方々の作品から今も楽しめるかと。

 そんな昭和の塾バイトでは、人並みに苦い経験も。その辺りはこちらを参考になさって下さい。

 この事故は大学2年生後期に起こりました。信頼関係の崩壊というハードランディングは、人生を深く考える良いキッカケとなりました。
 理系なので必要単位は結構多かったのですが、幸い大学2年生前期で卒業に必要な単位数は満たしていました。後は専門科目で以降の学年でしか取得できない科目と卒業論文のみ。ですからこの傷を癒やす時間はたっぷり有ったことは幸いでした。朝から自宅の屋根の上に上がって、飲めないビールで酔うなんていうやむを得ずの挑戦もしました。

 noteを書き始めた趣旨から赤裸々に本心を吐露(とろ)すれば…(笑)、悔しい紛れかも知れませんが(笑、しつこい)

良い経験として昇華

できました。

 立ち直り時期に意識的に自分の殻を壊す意味で気に入っていた中型二輪車生活、一寸限定解除コンプレックスを破壊して、卒業論文の為の研究でした多忙な日々の合間をぬって難関の限定解除試験に合格し、勢いで、VF750Fというスーパースポーツを購入しました。

 この件では父親に生まれて初めて、いい歳をして人生一度きり、殴られました。

 その辺りは以下もお楽しみ下さい。

 こんな仕事の世界でも、高校生の生活と恣意的に思いっきり異なる方向に舵を切って日々を楽しんでいました。
 結局大学3年生いっぱいまで講師を担当しました。大学4年生は卒業論文のための研究が忙しくなるので…

つづく

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