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結婚 その3.2 挙式も自分たちの手に 〜今どきの結婚式  当たり前過ぎて意識しなくなっていること

 鼻につく内容が続いてすいませんでした。
その3シリーズは、より素敵になった結婚式という事実を残すということで引き続き丁寧に紡ぎます。

 昭和の時代よりも今がいいねと思って頂ければ…

経緯
 その1では
〜改めて考えてみた
先ずは基本的認識の整理から
ということで結婚とは何かのおさらいをしました。

 その2では、
〜始まりは婚姻届提出
ということで、婚姻届の建付けから分かる結婚を考えてみました。

 その3.01は今どきの結婚式ということを深堀りすべく先ずは昭和のバブル期に入った位頃の能天気に明るい結婚式をリファレンスとしてご紹介。
 その後主流となるホテルでの挙式と披露宴のセットとの対比で大学や会社の施設を利用した挙式and/or披露宴のご紹介をしました。

 その深堀りで大学や企業の施設が結構開放されていて稀有な設備をリーズナブルに利用できるというご紹介をしました。

 その3.02はその具体的な例を1つご紹介。

 リファレンスなので当時の雰囲気が伝わるように詳述しています。

 その3.03は、具体的な例1つのご紹介の続き。

 大安吉日、土曜日、June Brideにも拘らず日本鋼管高輪クラブは貸切状態という結婚式当日の詳細。

 ハイソカーで乗りつけ、無宗教なのに神前結婚式をし、披露宴も派手に会社関係、学校関係、親族という構成で120人を超える参加者を迎えるというミーハー(今どき使わない言葉(笑))さ。

 硬い挨拶にも笑いが散りばめられる新しいスタイルの披露宴の走り。

「〇〇(私のこと)君はロリコン(ロリータ・コンプレックスの略)

だと聞いていたが、順当な素敵なお嫁さんで安心しました。」

とか

「ホントに〇〇が研究室に来る時は、実験以外、毎月の土曜日丸一日使う研究進捗報告会、週2回の輪講のみ。無駄に研究室にダラダラ居ないのです。他の同期の4人は順当に研究室に居るのに。なので顔を見れば“あっ会議の時刻か”と分かる程徹底していました。」

などと、受取りようによっては際どいネタを…
硬い挨拶の場面でもイジる軽さと明るさが…

 その3.04はその具体的な例1つのご紹介の続々篇。

 バブル初期の披露宴は兎に角明るい。

 会社の同期が私達夫婦の写真をスライドにしてくれて見事にロリコンネタでイジってくれました。
 まぁ当時20歳の吾妹に

Love “in” at First Sight


(正に“in”で、ガッツリ魅力にLock Onされた感じ)
だったので全く動じませんでしたが(笑)


 その3.05はその具体的な例1つのご紹介の続々々篇。イジリのゲームの話題でした。結婚披露宴が明るく楽しい… 

 最早単なるパーティー

となったというオチ。 

 閑話として、呆れる程“ドラ息子”の私の顛末を赤裸々に綴らさせて頂きました。どうやら読者の方々にはドン引きだった様ですが… (それでも残そうという趣旨)

 その3.06は、そして披露宴の後の

2次会たるや凄いことに…

という話でした。

 結婚披露宴は遅れに遅れ、予定より1時間半遅れて高輪クラブから“正統派”ディスコ、六本木のホテルアイビスにあった“高級”ディスコ”ラジャコート“に到着。2次会の会場は既に盛り上がっていて、吾妹は大歓迎、私は1部吾妹のファンから無茶苦茶にされつつも至って明るいバブル初期らしい2次会でした。

 その3.07は、高輪での挙式、披露宴、六本木での2次会を終えてタクシーで高輪クラブに戻る所から。
 
 流石に2人共疲れ切って居ました。気持ち良さそうにうたた寝をする吾妹の横顔を見つつ目に入ったケン・コーポレーションさんの看板を見て、いずれは物件を貸せる様になりたいなぁ…と。

 それは実現する未来が待っていたのですが…

そんな些末な事は遥かに超越する…

(そのレベルは私の祖父母や父母の代でやった。それを超える価値あるものとは…)

“お金では買えないそれ以上の素敵な未来”


が私こと”究極のドラ息子“(笑)には用意されていました。

 高輪クラブに到着して、最上階のスウィートルーム。疲れ切った身体で雑事をこなし…
 当時は私はすっかり痩せていて筋肉も落ちて体重は58.5kg。長身とは言えかなりの痩せ型の吾妹でしたが…吾妹を抱いてベッドに乗せることができなかったのでした。正に

画竜点睛を欠く

感じでした。優しい吾妹は笑って許してくれましたが…
 それでも2人っきりが嬉しくて、勿論“しっかり抱き合って”就寝。というオチ。

 その3.07は、結婚式の翌日に起こった交通事故の話でした。

 新居たる社宅に戻る前に、吾妹の実家に不要不急の荷物を置いて片付けをしている間に駅前の郵便ポストに行こうとした時…
 駅前の駐停車の車の切れているところに駐停車すべく、助手席側のドアミラーを確認した後ゆっくりと車線を変えて停車しようとした時、私を左から追い抜こうとしたおじいさんの運転するカブが助手席側後方の側面トランク辺りに衝突。
注意力が落ちていたのか…

画竜点睛を欠いた瞬間

として私の生涯の戒めとして記憶に残っているというお話しでした。

 その3.091は、“こんなこともしちゃってもアリの時代”という感じで、2回目の挙式を上げてしまったというお話しでしたがその前フリが長くなってしまった為に、それをその3.091とし主題は

画竜点睛を欠く(続編)

としました。その内容は…

 新婚旅行の為に上手く月を跨ぐ感じで16日間休みを獲得し余裕ある旅程で、ニューカレドニアに。しかも殆どクラブメッドの施設内でヨット、ウインドサーフィン、テニス、海水浴、プール、アーチェリーなどなど、多様なスポーツを楽しめるという何ともお気楽なパッケージを選択。3食全ての食事もパッケージツアー旅費に組み込まれていました。その食事、最初のディナーでの事故。
 広めのテーブルに適当に座って、様々な国から来られステイしている方々との国際的な触れ合いを楽しむという趣向。
 私達もそのテーブルに着きました。当然話しかけられ会話のスタート。ネイティブではない方々の英語ということで連立方程式を解く様に難易度が高く頭は会話を維持するだけで手一杯の私は吾妹そっちのけで会話していました。その時不運にも吾妹のメインディッシュが、給仕の方の不手際で滞って居たのです。新婚旅行で吾妹のそれに気付かず。放置された吾妹は激怒という…

画竜点睛を欠く

の続きという顛末になってしまったというオチのお話しでした。

 その3.092は、本題のこんなこともしちゃってもアリの時代という感じで、2回目の挙式を上げてしまったというお話した。

 オプションとして、ヌメアというニューカレドニアの首都の市の中に有る教会での結婚式と市庁舎での写真撮影。当日は3組の新婚カップルがツアーに参加。吾妹は自前のウエディングドレス、ティアラ、ブーケ等一式を日本から持ち込んで、私は肩掛け式の本格的な8mmビデオカメラと3脚を持ち込んで2度目のチャペルでの挙式と市庁舎を含めてのプロカメラマンによる記念撮影に。日本で神道式で挙式を行った1週間以内に行った

 完璧な記念用のキリスト教式ウエディング

何ともほのぼのした話
何とも節操のない話かな

 3.93は、新婚旅行で2回目の挙式を完璧にこなした後の失敗談です。

 操船は簡単とナメていたディンギーで、微風時にタックする時に、たまたま吹いた風に煽られ吾妹の頭を帆を張っていたポールでなぎ倒す事故を起こしてしまったというお話しでした。

 体育会系の吾妹が受け身を取って大事には至らなかったものの、せっかくの長閑な1日を一瞬にして台無しにした正に

画竜点睛を欠く


瞬間でした。

 勿論ヨットマンの世界ならお前二度とヨットに乗るなとなるレベルの緊張感を欠いた瞬間の重大事故のお話しでした。

 その3.093は、もう一つのオプショナルツアーとして参加したイルデパン島でのお話し。

 双発の古いプロペラ機でイルデパン島に…シュノーケリングも得意な吾妹の案内で魚の居そうなスポットを探し鑑賞。

 お昼は、温(ぬる)い温度のビールに現地の地魚や大きなロブスターを焼いての楽しいひと時。
 その後トイレの無いビーチで腹痛に襲われてしまって、人生最初で最後の手段を使ったというオチでした。

 その3.0からは、リファレンスを横に置いて今どきの結婚式を愛(め)でるシリーズ。結婚というテーマの副題として

 2人の為の素敵な景色

を選ばさせて頂きました。それは今どきの結婚は家(ファミリー、一族…)と家というスタイルではなく、家はあくまでの脇役で主役は結婚する本人2人という明確な定義の改善が主流となっているからです。
 それに伴って結婚式も形式から中身へと重点が移って、最も端的な改善は、結婚式の主催者の定義。

 新郎の家の家長から、新郎新婦2人へ

 そして仲人という仕組みが一旦は崩壊し、婚活ビジネス等に再構築されたことも大きな変化、というお話しでした。

 その3.1以降は、私が経験し学んだファンダメンタルズを意識しながら、1つの素敵な結婚式の具体例を取り上げてその素敵な新しい流れを見ています。

 昭和のバブル初期の結婚の流れには、各々の両親への紹介·許諾、結納、仲人への挨拶、挙式、披露宴というのがまだまだ生きていました。しかし今は正に多用性(Diversity)の時代。それでもザックリとは、関係者会食(両親の顔合わせ)、挙式、披露宴というリーズナブルな流れに収斂しつつある感じです。特に“各々の両親への紹介·許諾”という”両性の合意のみ“と反するプロセスがある絶滅危惧種になっていることがとても好ましいと感じています。

[関係者会食(両親の顔合わせ)]
 両親に加えて最大でも無理ない範囲で兄弟までかなぁ… 個室があるカジュアルなレストランで和やかな歓談という趣向。自宅でするとどうしても歓談に集中できないので、割り切って、おもてなしはプロに任せるというもの。驚くのは、スマホやパソコンの発達でちょっとした資料が手元に事前に届き、会食前に簡単なプロフィールは共有して大人の準備を促されるというもの今どきらしい。

 こんな感じで、リファレンスを横に置いて今どきの結婚式を愛(め)でて、人類の進歩と調和を味わいたいと思っています。

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 今回は、挙式についてです。

 これだけは昭和の時代と余りに変わっていない部分。既に昭和の時代に形式的に何らかの宗教を挙式を準備するタイミングで志向に合わせて選んで、それを1つのスタイルとして割り切って式を挙げるというスタンスは始まって居ました。宗教側も無宗教の方がマジョリティーになる流れの中で、何とか結婚式を切っ掛けに宗教を思い出して欲しいということで相互にメリットがある形で定着している様です。

 人前式での挙式というのは無宗教の方のもう一つの選択肢で、これもまた定着した感じです。神様ではなく、家族やゲストの前で結婚を誓い承認してもらう趣向の人前式。決まった手順がないフリースタイルの挙式なので、ふたりの思うようにアレンジできるのが魅力です。会場は、例えばチャペルで十字架を外して行うなんてつわものも…。まぁ教会側もとても柔軟。ガーデンや披露宴会場、ロビーなどを使って行うことも。みんなに参加してもらえるので、和やかなムードに包まれたセレモニーを叶えることができます。

 とは言え、キリスト教式がポピュラーとのこと。

出典例

 実際今回取り上げる具体例もキリスト教式(プロテスタント)にしてみますね。

 牧師さんが待つ会場に

新郎側が先に入場して、そこに新婦の父に連れられて純白のドレスを身に纏(まと)った新婦が素敵な音楽と共に厳(おごそ)かに入場。新郎新婦が揃ったところで牧師さんに促されて結婚を誓います。それを参列者も共に合唱するなどして祝福するという流れ。

 キリスト教ならではのスタイルとして、美しいハーモニーに装飾され、聴き慣れた民族音楽等のメロディーを駆使した賛美歌が多用されます。だから歌い易い。

 本邦では1903年に、別所梅之助さん達がプロテスタント各派共通の讃美歌を出版したことで、その時期に日本語としての賛美歌というものが定着し始めた様です。以降、例えば大正時代の半ばから讃美歌の改訂の要望が起きて、1931年に別所さん達が改訂を行い、讃美歌の改訂版が出版されるという様に逐次改善が成されている感じです。

 たまたま親族がこの別所さんの親族に嫁いたこともあり、幼い頃この辺りの話を聞かされたので多少土地勘が有ります。

 その賛美歌に鍵盤楽器を駆使しての伴奏を付けて参加者に心地良い雰囲気に誘(いざ)うという定番のオ・モ・テ・ナ・シが有効。実際にその場で演奏者が生演奏する場合、低音が特徴のパイプオルガンも良いのですが、最近はピアノで軽やかにというのも選ばれて居るようです。まぁ古典的な楽器のスタイルに拘らなければ、シンセサイザーなら何でもありですからお好みに合わせてというところでしょうか。
 牧師さんが居ても、新郎の入場位までは自分(たち)の好きな楽曲を流すなんて言うのもアリの様ですが。

 この音楽を含めた雰囲気を楽しみにキリスト教を選ぶ方も居るようです。

 締めは、参加者からの花吹雪を受けて楽しく退場するというのも綺麗な演出ですよね。

 昭和のリファレンスは神式でしたが、当時も既にマイノリティになりつつあり、キリスト教式がマジョリティーになりつつありました。

 ということで今どきのキリスト教式の挙式の1例をネタに、より自由度が増しつつも宗教的なお作法も綺麗に取り込んで居る挙式のトレンドについて学んでみました。

 Again… ホントにどんどん良い時代になっていきますね~

つづく

蛇足
 因みに1990年代前半、アメリカ、シリコンバレー駐在時に、現地会社の直属の部下でフィリピンから来られた元看護師で当時は半導体デバイス開発のテクニシャンの仕事をしていた方の結婚式に呼ばれました。その時は、カリフォルニアの安定した青い空の下、心地良い暖かさの空気の中、広い庭のあるレストランを借り切って、芝の上に演台や椅子を並べ、牧師さんを招いてのカジュアルな結婚式に参加しました。お祝いは、新郎新婦が作った欲しいものリストが有って、各自その中から贈りたい物を選ぶというスタイル。新婦の親友が務める幹事が居て、お祝いがダブらない様に調整して居ました。合理的ですよね~。
 今は日本でもこんなスタイルも見受けられるそうですが…

 英語で賛美歌を歌ったのもなかなかレアな経験でした。

 まぁ、総合的に教育に良いと選んだプレスクールがたまたまプロテスタント教会系だったこともあり、子どもは何時も自宅で賛美歌を口ずさんでいました。それも英語で賛美歌を歌うことに違和感が無かった理由かも知れません。


 







 

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