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私は駿台予備校卒業生 その4 古典の高橋先生の話 ~当たり前過ぎて意識しなくなっていること

 古典の高橋先生の話。

 1970年代中頃、私は駿台予備校の生徒でした。毎日、高校が終わると図書室に行き、そこから御茶ノ水まで通いました。夏休み、冬休み、春休みも自宅から講習会に通いました。
 同校には、個性あふれる講師の方々がいらっしゃいました。私の心を捉えた講師の方々は、皆入試のためではなく学究生活の礎としてというスタンスで授業を構成していらっしゃいました。

 今回は、古典の高橋先生の話。

 高橋先生には、古文を通して哲学を学んだと思っています。

 特に西田幾多郎の無、円などの理解。
今も、人生観の礎としての心の深いところに鎮座しています。これを古文を題材にして、様々な角度から何度も解説して頂きました。

 比較的わかり易い「円」の解説例
テニス
①初めは遊びで何も考えず自然に自由にラケットを振り回し楽しむ
②意識して基礎的フォームを習い素振り
③意識して実際玉を打ってサービス、ラリー
④実践を意識して模擬試合
⑤練習成果を意識して試合
⑥試合を重ね自然に身体が反応するまでに習熟
⑦意識することなく身体が自然に動き自由自在にテニスを楽しむ

①からぐるっと回って
⑦=①' 
つまり自然に自由に楽しめる境地に戻る

 童話の「青い鳥」を例にされることも有りました。

 また、古文は所詮日本語なのでそのまま現代文を読むように理解するようにという指導は、説得力が有りました。そのため、私は今でも日常会話に微妙に古語が混ざってしまいます。
 例えば、日常会話で「今だに」という言葉を使ってしまいます。

現代語 未だに (yet)
古文  今だに  (現代語なら「今でさえ   (even now)」)

詳しくは以下を参照下さい。

「だに」は古語なのだそうですが、私には現代語としての語感が有って口をついて出てしまいます。

 また、学徒動員での元海軍特攻兵だったそうです。そのためか、教材を通して哲学、特に死生観について深く洞察する解釈に特徴があったのだと思います。そこに

 素直に惹かれました。

 高橋先生の詳細は、以下に詳しいのでそちらをご覧になって下さい。

 古文を現代文と連続的に捉えられるようになり、師の哲学を古文という教材を通じて会得した、とても楽しい高校時代でした。

蛇足
 ちなみに高橋先生は、清泉女子大学の教授をなさっていて、縁有って私の子供がその附属校で学ぶ機会を得ることに。

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