那須与一

扇の的 

 女房が、手から解き放つと、裾は、重さのまま、ばさりと船底に、落ちた。
なぶられる髪を押さえ、春に彩る襟に、指をそわせ、淡々、整える。

 その仕草を横目で見た、十五、六ばかりの少年はごくりと喉を鳴らす。
一兵卒の彼が目にすることなど、ほとんどかなわない、高級な女房が、顔を晒し、すぐ側にいる。
薄浅葱色の単を手繰り寄せ、船に乗り込む女に、手を貸しさえした。
桜貝の爪。頼ったその手の、何と、白かった

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凄く嬉しいです😆
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私本義経 屋島合戦2

後藤殿は預けられた弓を掲げたまま、畠山重忠殿を見やる。
いやいやとご老体がご遠慮なさるのを見、次に東国武士、那須十郎を見やるが、かれは腕に怪我をしている。
聞けば一ノ谷での怪我だという。
いかに弓の名手でも、弓手に負傷していては、良い結果など残せるはずがない。
名人上手がだめならば、たれがこの重責を担うのだ。

わが弟(てい)、与一がよろしいかと。
与一。

呼ばれて現れたのは、鎧が歩いているのか

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雑記:那須あれこれ

平安時代後期から戦国時代にかけて那須地方に勢力を張った下野の豪族・那須氏ゆかりの史跡は、現在那須烏山市や大田原市内、那須町内に多く残る。

那須氏は藤原氏北家の流れを組み、藤原道長の孫・資家(須藤貞信)を祖とし、資家が那須に下向して土着したことで起こったと言う(なお、日本の須藤姓のルーツの大半はこの資家にあると言う)。

当初「那須の藤原氏」と言うことで須藤氏を称したが、後に那須資隆の代に那須氏と

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京都府内の石造物⑯:即成院宝塔(伝・那須与一の墓)



名称:即成院宝塔

伝承など:那須与一の墓

所在地:京都府京都市東山区泉涌寺山内町 即成院

即成院は皇室の菩提所として知られる泉涌寺の塔頭であり、平安時代後期に橘俊綱(藤原頼通の子)によって創建されたと言う。

同寺は弓の名手として名高い那須与一宗高ゆかりの寺で、屋島の戦いの後で病気平癒のためにこの寺を訪れた与一が、阿弥陀如来の前で没したと言う伝承がある。

境内には那須与一の墓と伝えられ

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