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目薬名人

 私の夫は、目薬をさすのがうまい。
 まるでCMのように、一回で目薬を瞳に命中させている。外しているところを見たことがない。その命中率は、まさに名人の領域である。

 それに引き換え、私は目薬を指すのが下手だ。
 2階からさしたのかと言われかねないほど、薬液は私の目からことごとく外れていく。そんな妻を見て夫は言う。

「目薬を1本使い切る勢いだねぇ」

 私も常々、こんなに目薬を無駄にしていては、もったいないと思っていた。私だって、できることなら夫のように、一回で目薬を瞳に命中させたい。どうしたら一度で点眼できるのだろう。私は、目薬名人の夫に点眼のコツを訊いてみた。すると、

那須与一 なすのよいちの気持ちになるんだよ」

 そう夫は言った。
 まさかここで源平の合戦が出てくるとは思いもしなかった。
 那須与一といえば、元暦2年(1185年)の屋島の戦いで平氏の軍船に掲げられた、波に揺れる扇の的を弓で射落としたことで有名だ。
 与一は、扇を射落とすことができなければ、腹をかき切って自害すると宣言し、死を覚悟して弓を引いたと伝えられている。

「死を覚悟してまで目薬なんてさせないよ」
 私が言うと、夫は、
「与一がダメなら、ウィリアム・テルでもいいよ」
 そんな代替案を示してきた。

 ウィリアム・テルとは、オーストリアの悪代官ゲスラーに
「お前の息子の頭の上にリンゴを載せ、それを弓で射落とせ」
 
と命令され、見事、リンゴに矢を命中させた伝説の人物である。スイスの童話や、ロッシーニのオペラでも知られている。

 誰かの頭にリンゴを載せて矢を射るなんて、とてもじゃないができる気がしない。的を外しただけで、誰かが死ぬかもしれないなんて考えたら、際限なく手が震えてしまうだろう。

 那須与一とウィリアム・テル。
 どちらの気持ちになるにしても、私には荷が重い話である。

「人の命を懸けてまで、目薬さすのはいやだなぁ」
 私が言うと、夫は私の手からサッと目薬を奪い、

「そうやってプレッシャーに負けているから、いつまで経っても一発で目薬がさせないんだよ! ほら、見てごらん!」

 そう言って目薬をたらすと、見事一発で瞳に命中させた。

「俺くらいになるとね、目薬の方から勝手に目に飛び込んでくるんだよ!」

 夫は潤んだ目をカッと見開き、そう言ったのだった。
 





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