那須与一と鏑矢(かぶらや)その2(全2回)

さて、那須与一にご馳走が振舞われた後、
「私の命を助けていただいたご恩返しに、金銀を差し上げることになっております。けれどもこれは、どこにもあるもので宝とするほどの物ではございません。我が家の第一の宝は鏑矢(かぶらや)でございます。この鏑矢さえお持ちになれば、武名(ぶめい)を天下に上げ、誉(ほまれ)を永く家に伝えることができましょう。」
とな、あの童(わらし)が与一の耳元でヒソヒソ言ったんじゃと。童の言ったとおり、しばらくするとな、黄金を山ほど積んだ白金のお盆が与一の前へ置かれたんじゃよ。
「我が家は、貧しき者ではありますが、弓を生業(なりわい)とする家に生まれましたゆえ、金銀を宝とはいたしませぬ。恐れながら、こちらのお家では鏑矢(かぶらや)を宝としてお伝えになっておられるとお聞きしておりますが、もしそれをいただければ、嬉しゅうございます。」
と、与一はな、思い切って言ったんじゃ。老人はな、
「鏑矢こそ我が家の唯一の宝ではありますが、我が子を救ってくだされたお礼に何を惜しむことがありましょうぞ。」
と言ってな、雄矢(おや)と雌矢(めや)二本の鏑矢を与一に与えてくれたんじゃよ。そんな訳でな、このあたりは蜂の巣村と言われるんじゃよ。そうじゃよ。この矢こそ、那須与一宗高が1185年の屋島の合戦で平家の扇の的を射たという矢が、この矢のことじゃよ。

与一はな、この鏑矢を手に入れてからな、何年かして源義経(みなもとのよしつね)の家来として四国の香川県屋島まで行ってな、源平(げんぺい)の屋島の合戦で戦ったんじゃよ。その時なぁ、夕方になってな、敵の平家の船に美しい娘がな、きらびやかな扇子(せんす)を竹竿の先にくくってな、手招きをしたんじゃよ。これを射てみよとな。義経はな、家来の中で一番弓引きの上手な那須与一宗高を選んで、その扇を射させたんじゃよ。海岸の波打ち際から船の上の扇をな、一矢で射たんじゃからな。この鏑矢のおかげじゃのぉ。

この有名なお話はまた今度じゃな。

さあ、お休みじゃ、ポン!

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