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No.238 三日坊主も筋金入りか?

 40代から50代にかけて「横笛」と「弓道」を習った事があります。

 『平家物語』の「敦盛の最期」(巻九)の名笛「小枝」や「那須与一」(巻十一)の「扇的」の名場面の話に魅せられ、体感して作品理解を深めたいという気持ちもありました。ところが、いつまで経っても「三日坊主」の悪癖が抜けきらない根性なしの私は、横笛は半年、弓道は1年で音を上げてしまいました。恥ずかしながら、「何でも中途半端を得意とする才能」にだけは恵まれています。

 さて、中島敦著『名人伝』の弓の話は、とても魅力的です。主人公の紀昌は、飛衛のもとで型の修行をします。機織り機の下に寝っ転がって機躡(まねき)が上下するのを見て、まばたきをしないための修練を積みます。そして、「小を視ること大のごとく、微を見ること著のごとく」、髪の毛に結んだ虱を見続けるうちに、紀昌はその能力を手に入れるのです。そこで、飛衛は紀昌に射術の奥儀秘伝を授け始めました。紀昌の腕前の上達ぶりは驚くほど速く、とうとう紀昌は師から学ぶものがなくないまでの域に達します。

 師の飛衛は言います。
「霍山(かくざん)には甘蠅(かんよう)という大家がいる。老師の技に比べれば、我々の射のごときはほとんど児戯に類する」。

 そこで紀昌は甘蠅のもとに赴くのですが、甘蠅はいきなり、弓も矢も使わずに鳶を射落として見せたのです。その時の甘蠅の言葉にシビれます。
「弓矢の要る中(うち)は、まだ射の射じゃ。不射の射には烏漆(うしつ)の弓も粛慎の弓も要らぬ」
いつか、その精神を体得し悟ることが出来たならと、「三日坊主」の才能の豊かな私に、夢のようなことを考えさせるほど、作家・中島敦の言葉には魔力がありました。

 中島敦が『名人伝』を書いたのは、1942年(昭和17年)、彼が33歳の時だったそうです。私は、この早熟の天才の心に射据えられたわけですが、悟ることはおろか、体得することさえできませんでした。ただ、名誉のために一言述べさせてもらえるなら、長続きせず逃げ足の速さだけは、私の方が勝っていたということのようです。三日坊主も、筋金入りです。