【歴史の謎解き・歴史のあれこれ】 ~真の日本の歴史~ 「革命」の中の義経 4
今回も義経について続きを書いていきたいと思います。
今書いているテーマのタイトルにもありますように、前回までに「革命」という言葉を何度か書いたのですが、私個人は特に政治的な主張や偏りみたいなものはなくて、左派でも右派でもなく、あえて政治的なことを書くとしたら、例えば、アメリカでは二大政党としてリベラルな民主党と保守派の共和党がありますが、リベラルか保守かでいえば、リベラルのほうが好きかなというくらいです。
人類の歴史の大きい流れを見た時に、人類は究極的には常に「抑圧から解放されよう、抑圧から解放されよう」という方向に動いているといえると思います。
源義経が最大の功労者となった源平合戦というのも、そうした人類の大きい流れに沿った出来事だったといえると思います。
一ノ谷の戦いの勝利の後、義経は京都に駐留して畿内の軍事と治安維持にあたっていましたが、義経に代わって平家追討に向かった兄範頼の苦戦を知り、後白河法皇に引き留められつつも、奏請の上、出陣します。
そして、屋島の戦いです。
義経はまず熊野水軍や河野氏の伊予水軍を含む源氏方の水軍を摂津国に集め、わずか150騎で出航し、途中、「屋島の平家方は島々に分散していて、河野氏討伐部隊を伊予に派遣しているため、平家方本陣の兵力は1000騎に過ぎない」という情報を得つつ、屋島まで進軍します。
そして、義経は屋島が干潮時には四国本島と陸続きになることを知り、大軍と見せかけつつ、陸続きとなった屋島に一気に奇襲攻撃をかけます。
意表を突かれた平家方は対抗できないまま海上に逃れ、しばらく拠点として来た屋島を失います。
この義経の奇襲攻撃が屋島の戦いの勝敗をほとんど決したといえます。
少ない兵力で多勢を破る奇襲攻撃は義経の必殺技であり、義経が戦術家として非常に優れていたことが分かります。
しかし、義経の率いる兵力が少ないことを知った平家方も反撃に出て、海上から矢を射かけます。
この時、平泉から従って来た佐藤三郎兵衛尉継信が義経の身代わりとなって討死します。
この継信と弟の佐藤四郎兵衛尉忠信の属する佐藤一族は全国のほとんどの佐藤さんのルーツであり、平将門を討った鎮守府将軍藤原秀郷の子孫であることは有名です。
後世、同じく秀郷の子孫であり奥州藤原氏の三代目である藤原秀衡の名字を佐藤とし、「佐藤秀衡」と呼ぶ時代もあったくらいです。
このことは秀衡が継信忠信兄弟の姻族(婚姻関係による親族)であったこととも関係あります。
この継信忠信兄弟は、秀衡の命により平泉から義経に従って来た正に義経の忠臣であり、佐藤一族の代表的な武将として知られています。
また佐藤一族からはこの時代の歌人として有名な西行が出ています。
西行は俗名(出家前の名)を佐藤左兵衛尉義清(憲清)といい、下北面の武士として鳥羽院(鳥羽法皇)に仕えていました。
数々の名歌を残し、著名な歌人となってからは朝廷要人とも親しく、秀衡や頼朝とも面識を持ちました。
そして、那須与一資隆(初名は宗隆)、即ち、那須与一の登場です。
那須氏は平安時代中期の摂政・太政大臣で藤原摂関家の全盛期を築いた藤原道長の子孫とされ、下野国(栃木県)那須郡を領していた武家です。
与一はその十一男として生まれたとされ、この時、義経の配下として従軍していました。
那須氏が本当に道長の子孫であるかどうかは別として、那須氏を含む下野国の武家のほとんどが藤原姓であり、これはかつて将門を討った秀郷がその祖父以来三代に渡って下野国に住み、かつ、将門追討の恩賞として下野守・武蔵守および鎮守府将軍に任じられ、小山氏、佐野氏、藤姓足利氏などの秀郷の子孫、あるいは、少なくとも何らかの形で秀郷の子孫としての系譜を引き継ぐ武家たちが下野国に土着し、数百年に渡って割拠して来たことと関係があります。
将門を討って「将軍」に任じられた秀郷の武名の大きさから、下野国は秀郷の子孫、あるいは、秀郷の子孫としての系譜を引き継ぐ武家たちの勢力圏であったといえますが、那須氏もその下野国に領地を持つ武家である以上、やはり何らかの形で藤原姓とし得る家系であったと思われ、これは関白藤原道兼(道長の兄)の子孫を称する宇都宮氏にも同じことがいえます。
もちろんその系譜が正しい可能性もありますが、家系は時として誇張されます。
その場合、同じ藤原姓でもより位の高い人物の子孫であるとする何かしらの都合や事情があったことは確かですし、しかし、例えば先祖がそうした人物の養子や猶子(養子よりも緩やかな関係だが、養子とほぼ同義)であった可能性も含めて、何の根拠もなくそのように位の高い人物の子孫とはしないのもまた確かです。
那須氏についてのみ言及する場合、元々下野国那須郡一帯は孝元天皇の子孫とされる那須国造の支配領域であり、那須国造の子孫が那須郡において那須氏を称していたのですが、その後、道長の子孫とされる藤原姓の男性が那須郡を得て須藤氏を名乗り、その子孫が那須国造の子孫である那須氏の女性と婚姻して、さらにその子孫が与一の父那須太郎資隆(父も同じ実名という)であるとされています。
これが藤姓那須氏の起源とされていますが、この場合、与一の家系は那須国造の子孫である那須氏の一族としてその名跡を継承したのだといえ、那須氏の始祖は与一の父太郎資隆ではなく古代の那須国造だといえます。
また、与一は「余一」、つまり、「あまり一」という意味で、与一は太郎資隆の十一男として生まれたとされているのですが、医療技術の乏しい時代に、実際に成人した実の子が男子だけでも十一人もいたということは考えにくく、十一人の男子のうちの何人かは、あるいは、多くは、例えば実際には孫であったり甥であったり、姻族を含む親族の子であったり、家臣や関係のある有力者の子であったと思われます。
特に兄弟や孫や甥・姪や姻族を含む親族の子などはどの武家でも大きく「家の子」とされていましたので、系図・系譜上は全て当主の子として記載されることも多々あり、もちろんそれなりの都合や事情もあってのことですが、例えば「八男とされる人物の実の父親は次男であり、系図・系譜上は兄弟とされている」というようなこともよくありました。
さらに系図・系譜上に正式に「養子」や「猶子」と記載される子もいました。
昔の「家」や「家系」についての概念はそのようでありましたし、系図・系譜とはそのような物であったのです。
屋島を取り戻したい平家方は伊予からの援軍を待っており、屋島の戦場から退かないで時間を稼ぐ必要がありました。
源氏方、つまり、後鳥羽天皇の年号で元暦二年、平家方、つまり、安徳天皇の年号で寿永四年、西暦1185年の2月20日も戦いが続いていました。
その戦闘中、義経が脇に挟んでいた弓を落とし、平家方に弱い弓を使っていることが知られないよう命がけで弓を拾い上げたとされています。
そして、その夕刻、竿の先に扇を付けた平家方の小舟が現れ、源氏方に「この扇を射落とせるか」という「ゲーム」をしかけます。
「ゲーム」という表現が的確かどうかは分かりませんが、いやしくも公卿である平家方からの優雅な「挑発行為」ともいえます。
源平合戦の長い長い戦いの中でこのような出来事が起こったことは、いかにも当時らしいといえますし、援軍を待っているとはいえ、この頃には、源九郎判官義経という天才武将の登場に「源氏にはとうとう勝てないかもしれない」というムードが平家方にあったのかもしれません。
この平家方からの「挑発行為」に対して、義経はまず畠山庄司次郎重忠に扇を射落とすように命じますが、重忠はこの命を固辞しています。
重忠は武勇の誉れ高く、清廉潔白な人柄で、「坂東武士の鑑」と称されていました。
重忠の属する畠山氏も平家と同じく桓武平氏の家系とされていますが、平家、つまり、伊勢平氏とは違って、源氏方に属する多くの桓武平氏の武家と同様に東国(関東・東北)の武家であり、この時、重忠は義経の配下として従軍していました。
重忠はこの義経の命を固辞する代わりに那須十郎為隆を推薦します。
為隆は与一を凌ぐほどの弓の名手であったとされていますが、戦傷のためにこの推薦を固辞し、代わりに弟の与一を推薦しました。
この辺り、平家方からの思わぬ「ゲームのお誘い」「挑発行為」に対して源氏方も「どうする?どうする?」となっているように思われます。
平家方からすれば、「援軍を待っているとはいえ、相手が義経では兵力の多さではどうも勝てない。例え一時的には勝っても、平家の凋落甚だしく、最終的には勝てないかもしれない」というムードがあって、そのムードの中で、源氏方に対しては「あくまでも我々が正統な官軍(天皇の軍勢)だが、もう我々に勝ったも同然でしょ。それなら少しは優雅にやろうよ」という感じだったのかもしれません。
源氏方としても、平家方からのこの「挑発行為」を武門の名誉としてスルーしたりはできず、かつ、受けるならば扇を射落とさないわけにはいかないわけです。
与一はやむなくこれを引き受け、武門の名誉がかかっていますので覚悟を決めて挑みます。
与一は騎馬で海に乗り入れ、「南無八幡大菩薩」と神仏の加護を唱え、鏑矢を放ちます。
矢は見事に命中し、扇を射落としました。
源氏方も平家方も与一のこの見事な弓に感嘆し、どよめいたとされます。
昔の合戦とはこのようでありました。
敵も味方も故あって戦っていたのであり、時には故あって味方に転じることもあったのです。
与一はこの功績により頼朝より5か国に荘園を賜ります。
そして、為隆を除く兄達が平家方に属していて、かつ、為隆も後に罪を得たため、与一が那須氏の家督を継ぐこととなり、以降、那須氏は発展していきましたが、それはひとえにこの時の与一の武名によるところが大きいのです。
平家方ルールのこの「ゲーム」「挑発行為」「合戦中の余興」「つかの間の祭り」において見事に武門の名誉を示した源氏方ですが、その大将である義経は油断しません。
翌日も平家方は反撃に出ますが、源氏方はこれを撃退します。
そして、平家方は梶原景時率いる源氏方の援軍が近づいていることを知り、西方に退却していったとされています。
この平家方の退却の理由は、源氏方援軍の予測というのもあるとは思いますが、平家方も「源氏方には勝てない」という大局的な見通しをこの頃には持っていたということもあるのではないか思います。
平家方は屋島を失い、残りの四国勢も離反し、瀬戸内海の制海権を失います。
また、屋島を失ったことで平家方は陸上への補給線攻撃も出来なくなりました。
そして、源平合戦の最終章である壇ノ浦の戦いです。
次回に続きます。