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山際響
2021年10月6日 08:01
「就活生ですか?」 そのタクシー運転手は言ったが、私は眼を向けることすらせず、この自動車は無人で動いているかのように、その声を無視した。 女性だから馴れ馴れしいのかと、私は警戒していた。外に眼を向けると一日の終わりの風景が、私の意思とは無関係に眼に入ってきた。空の夕日から遠い部分は、藍色に染まり星を待っていて、空と海の交わる境界には、溶鉱炉のような橙色が、荒くて太い筆で描かれたように水平線と平
2021年9月1日 17:59
あらすじ 孤独な落書きアートのライター由美はリコと出会う。 二人はともに真夜中に落書きを始めるが…… 誰にでも、人生で時間、空間を真っ白にに塗りつぶしたい時がある。由美にとって、今がその時だった。 由美は無心で線を引く。真っ黒なパソコンモニターに白い線が現れる。無心だったが、楽しいからではない。そうしなければ心が痛むからしている。 いま由美が向き合っているものはCADというもの
2021年6月23日 17:37
そのマンションは、人通りのまばらな、ニュータウンの大通りから離れた、この世の果てのような、静かな場所にあった。二階建てで象牙色の壁を持ち、白い扉がそれぞれの階に三つほどあった。扉は見えないが、一階の左端には小さな部屋が一つ付いていて、マンションの綺麗な長方形のシルエットを少し乱している。鉄筋コンクリート造で造りはしっかりしており、柱や壁は厚そうだった。周囲には空き地が広がり、ぽつぽつと一戸建てが
2021年3月4日 19:42
一年のうち、七割は雨の日なんだって! この地域の話さ。信じられない。雨が降るからここら辺は森だらけで林業が盛んなんだよね。 僕は奴の車に乗って、港町へと向かっているんだけど、今も雨が降っている。 道路の両側には、大きなモミの木がいっぱい生えている。曇り空だから薄暗いし寂しい道さ。ものすごい大きな木を乗せたトラックが一分ぐらい前に、僕らの車を追い越してから、車なんて見てないね。 僕らの住ん
2021年1月24日 13:28
雨上がり特有の土の匂いが、開いた窓から流れ込んできた。 秀樹が顔を上げると、プラスチック制の水のない水槽が、白いレースのカーテンに撫でられている様が見えた。カーテンと水槽が擦れる音を聞きながら秀樹は窓を見た。カーテンの合間から見える空は、まるで溶鉱炉のように赤かった。次に水槽の中で佇んでいる黄色と黒の肌を持つカエルを秀樹はしばらく眺めていたが、空からの飛行機の音で、集中が途切れた。秀樹は立ち上
2021年1月21日 21:26
自分の鼓膜を見るのは初めてだった。思いもよらない事だったが、彼は自分の一部に見惚れた。 自覚症状はないのだが、聴力が落ちていると、定期健診で言われた。彼は事務担当で、職業的には耳に負担はかからない仕事のはずだ。元々、静かなオフィスでひたすらキーボードを打っていたが。最近はすっかりテレワークが定着したので、彼もその波に乗り、オフィスよりもさらに静かな自宅でひたすらキーボードを打っている。いまや耳
2020年7月29日 20:32
あの夏、私は一人の男を穴に閉じ込めた。 私も他の多くの人々と同様に、私の心を深く傷つけるものは、残念ながら死んでも仕方がないと思っている人間だった。 あの日、私は自分の家へと続く畦道を歩いていた。私の両脇から水田に潜む夏蛙の鳴き声が聴こえてくる。一体どうして夏蛙の声はこんなにも私を落ち着かせてくれるのだろう。蛙の鳴き声など、煩いだけだろう、とある友人は言ったが、私はそうは思わない。人の意
2020年7月16日 17:47
オーロラは見えなかった。雪を被った白樺の合間に、揺らめく星が見えるだけでも、スオミには満足だった。夜空を見上げ、そこに星が見えれば、北欧の小さな村に住んでいる事を忘れ、ほんの少しだけ日々の疲れもとれた。 スオミは倉庫から、大き目のマキを二つほど取り出した。十歳の力では両脇に二つ抱えるのが限界だった。足元で白い犬が尻尾を振っている。犬の役割は、家の裏口のドアを引っ掻いて、スオミの母にドアを開けて
2019年11月9日 09:29
昔々の事。房州に安房の国があり、その浜辺の村に舟木という若い漁師が住んでいた。漁師だというのに、彼はあまり漁が好きではなかった。漁に関しては貝塚という幼馴染の男の方が上手かったし向いていた。彼は力も体格も舟木より上だった。その怪力で子供の鯨を片手で捕えたという噂すらあった。単純な力では及ばないが、舟木の方も貝塚にはない不思議な力を持っていた。人間や魚など生き物の心を読めたのだ。能動的に読めるわけ
2019年8月25日 11:06
沼の畔で行われる花火大会の数時間前の事だった。私は久しぶりに故郷に帰り、実家暮らしの妹とともに、会場へと続く水田のあぜ道を歩いていた。陽は沈みかけていて、藍色の空には灰色に橙色がかった雲が広がっている。雲間からの太陽光線が帯状になり、藍色を背景に幾重にも重なり合っていた。地平線に目を向ければ、雲が創り出す影を受ける水田の稲穂が一面に見え、風が吹くと水を張ったプールのように音もなく揺らいだ。 私
2019年7月7日 07:44
一年ぶりに見た父の姿は、死に向かって突き進んでいるとは言い難かったが、生き生きしているとも言えなかった。庭にある少しくたびれた木製の椅子に座り、鏡のように磨き抜かれた湖を眺めていた。湖面は青空と白い雲を映している。時々起る小さな波紋は、そこに魚が生息している事を示していたが、噂にのぼる湖の怪物の存在を物語るものはなにひとつなかった。 私も二十年ここで暮らしたが、一度たりとも怪物を見た事はないし