見出し画像

鼓膜

 自分の鼓膜を見るのは初めてだった。思いもよらない事だったが、彼は自分の一部に見惚れた。
 自覚症状はないのだが、聴力が落ちていると、定期健診で言われた。彼は事務担当で、職業的には耳に負担はかからない仕事のはずだ。元々、静かなオフィスでひたすらキーボードを打っていたが。最近はすっかりテレワークが定着したので、彼もその波に乗り、オフィスよりもさらに静かな自宅でひたすらキーボードを打っている。いまや耳への負担はゼロと言っても良いだろう。それで鼓膜が傷ついているとしたら、もう打つ手はない。彼は途方に暮れた。自宅より静かな場所といえば宇宙ぐらいなものだろう。
 どうしたものかと苦笑していると、医者が不審そうに顔をしかめ再びモニターに目を移した。医者は女性で、彼と同じ三十七歳だという。彼女にも、自分とほぼ同じ時間を与えられたのに、自分よりずっと若く見えるのはなぜだろうと、彼は思った。
「鼓膜には問題がないようですね」
 彼は専門家ではないので、問題があるかどうかはわからないが、モニターを見る限り膜に破損はないようだ。ライトに照らされモニターに映し出された自分の鼓膜は、ちょうど灰色と白の中間の色をしていて、障子か磨りガラスで区切られた、洒落た小部屋のようだった。耳の壁面は赤い血管が通った肌色で、ところどころに垢がこびりつているが、それらはライトに照らされ、まるで溶け残った軒下の雪のように光っていた。自分の器官に見惚れるのは嫌だったが、目が離せなかった。明かりを灯した夜の家みたいに、その膜は魅力的だった。次第に彼は妙な気分になった。彼は鼓膜の向こう側に行ってみて、そこがどんな世界か知りたくなった。膜が全ての音を吸収するのだから、月の上のように静かなのだろう、と彼は思った。
 鼓膜に問題はない、医者はそう言ったが、聴覚自体に問題があることは間違いない。先ほど、この病院でも聴力検査を済ませていたが、中音域が聴き取りにくくなっているという結果が出ていた。
「鼓膜に問題がなくてもね、その奥に問題がある場合があります」
 膜の向こうには、渦巻き状のカタツムリのような感覚器官がある事は、彼も知っていた。医者が言うには、そのカタツムリの中に毛が生えており、それが音を感知するのだという。毛は入口に近いほど高い音を感知し、奥に行くほど低い音を感知する。加齢とともに徐々にその毛が劣化していくが、大きな音を受けると年齢に関係なく、毛がポロポロと落ちて聴覚が劣化するらしい。もちろん、鼓膜の裏側の出来事なので破損する音を聴くことは出来ない。彼は目を閉じ、鼓膜の向こう側に思いをはせた。本人も、誰も知らないうちに、闇の中で毛が抜け落ちて、人間の聴覚はゆっくりと死んでゆき、徐々に徐々に、完全な沈黙に近づいてゆくのだ。
 医者はもう一度、彼の職業を聞いたあと、何か耳に負担がかかる趣味を持っているか? と聞いてきた。特にない、と彼は答えたが、正確には少し違う。最近は持っていないが、以前は持っていたというのが正解だ。
 もう二十年も前の事になるが、聴覚に負担がかかるどころか、ほとんど崩壊させるほどの趣味を持っていた。ただしそれは、彼以外の人間にとっての話で、彼自身、負担と感じることはなかったし、ましてや崩壊の兆しすら感じたことはなかった。
「二十年前のダメージが、今更まとめて来ることってあります?」
 彼の頭の中で、まとまった雪が夜に屋根からどさりと落ちる場面が浮かんだ。
「あまり聞いたことがないね」と医者が答えた。
 鼓膜を眺めながら二十年前の事を思い出していると、彼は自分の記憶が正確ではなかった事に気付いた。聴覚が崩壊する兆しは、一度だけ感じたことがあった。
 
 彼は二十年前、十七歳ぐらいのとき、バンドでギターを弾いていた。あまり上手くは弾けなかったが、次第に上手く弾く事よりも、音を大きくする事に興味が移っていった。他のメンバーは音量の大きさに顔をしかめたが、彼は不思議と平気だった。アンプからの音量がある一定のレベルを超えると、別の世界に入るような感覚を覚えた。それは最高の体験だった。全身が総毛立ち、繭で包まれたような感触があった。それだけではない。轟音は彼の自信にも繋がった。技術は疎く、見た目もさえないし、細くて背も小さい。しかし、巨大な音に対する耐性だけはある彼が、他を威圧し、存在を主張するには、この演奏スタイルが最も手軽な方法だった。どんな轟音を受けても、鼓膜は全くの無傷であると彼は自覚していた。ある日、演奏していたら、突然、一切の音が聴こえなくなった。ついに鼓膜がやられたかと思ったが、そうではなかった。あまりの音量に店側が電源を落としたのだった。
 誰も彼とは一緒に演奏しなくなった。しかし、巨大な轟音に魅入られていた彼は、この演奏スタイルを変えようとはしなかった。孤独ではなかったが、少し寂しかった。誰とも組まず、客に耳栓を配り、店側から電源を落とされる寸前の音量で、独り演奏を続けた。ついには店側からも嫌われ始め、ほとんどのライブハウスで出禁になっていたが、海岸の埋め立て地にある小さなライブハウスだけは彼を面白がり、使い続けてくれた。
 そこは倉庫を改造した変わったライブハウスで、壁の一部はガラス張りで東京湾が見渡せた。周囲は海と人気のない倉庫しかないので、ここなら音をいくら出しても平気だと、店長は言った。店長は三十七歳の女性だった。首にネックレスのようなタトゥーが入っていて、唇には銀色のピアスが貫通している。とにかく陽気で、こちらまで陽気にさせてくれる笑顔を常に浮かべていた。その店長は今はもういない。彼が二十歳ぐらいの時に死んだという。夜にライブハウス前の海に飛び込み、そのまま消えたという話だった。それを聞いたとき、彼はあまり驚かなかった。初めて会った時から、どこか生き辛そうだと感じていた。
 そのライブハウスでも、演奏スタイルはもちろん変えなかった。彼はただ独り、ひたすら轟音を出し続けた。耳栓を配ったが、客は全員顔を青くして耳を塞いでいた。良い気分だった。音の反響も上々で、定員二十名程という広さも丁度よい。
 しかし、そこでのライブは、結局数回しか行わなかった。
 彼が最後に演奏したその日は、朝から雪が降っていた。
 倉庫街は白く染まり、静まりかえっていた。ライブハウスの屋根にも雪が積もっていて、その向こう側には、灰色の雲で霞む水平線と、赤く点滅する浮きが見えた。
 静けさと反比例するように、その日の演奏は特に音量が大きかった。客の何人かは耳栓を捨てて雪の降る外へと出ていった。
 彼は観客の中に、変わった女がいる事に気付いた。耳栓もせず、微笑みを浮かべて、彼の演奏に聴き入っていた。彼と同じぐらい鼓膜が強いのか、あるいは鼓膜そのものが無いのではないかと疑うほど、彼女は平然としていた。
 演奏を終えると彼は彼女に声をかけてみた。年齢は彼と同じ十七歳で、彼女もギターを弾いているという。背中にギターを背負っていて、黒い革のケースが程よく痛んでいたので、嘘ではないだろうと思った。彼女は彼よりさらに細くて小さかった。自分も彼のような大きな音を出したいのだ、と彼女は言った。ようやく組める相手が見つかったと彼女は喜んでいた。その日の演奏に耐えたのだから鼓膜の強さは本物だ。彼自身も組める相手が見つかった事を喜んだ。
 さっそく、人気のなくなったライブハウスでリハーサルを行ってみた。彼はステージライトに照らされた陰影に富んだ彼女の耳を見た。不思議なほど整っていて、まるで工業製品のようだった。ガラスの向こうに雪がちらつき、水平線が見えた。彼はガラスが震えるほどの音を出した。すると彼女もそれに負けないぐらいの音量を出してきた。
 顔の皮膚や服が震えた。いつもの心地よさを超えて、眩暈を覚えた。さすがの彼も音量を上げすぎだと思ったが、演奏を止めたくはなかった。平衡感覚は乱れたが、不思議と頭の中は調和と平穏に満ちていた。彼女はそれでも物足りないというように、音量を上げ続ける。耳が痛くなってきたが、音量が一定のレベルを超えると、無痛と静寂が訪れ、頭の中が空白になった。鼓膜や脳が機能不全になり、崩壊の寸前である事が理解できた。彼は耳を抑えて床に倒れた。床の木目、溝にある埃、誰かが落とした割れたピックがくっきりと見えた。
 彼女も演奏を止めた。彼はゆっくりと耳から手を離した。彼女の足音が聴こえた。聴覚は失われなかったが、何か別のものは失われたと思った。さらなる高み、目指すべき世界が彼女にあったのだろうが、彼はそこについてはいけなかった。
 彼女は憐れみと悲しみが混じった表情を浮かべ、彼に向けて手を伸ばした。彼はその手を握った。柔らかかったが、人間の手と思えないほど冷たかった。彼は申し訳ない気持ちになった。仲間を見つけたと彼女は喜んでいたのに、失望させてしまった。
 それ以来、彼は彼女を見ていない。
 彼もそれ以来、音を出す事を止めてしまった。轟音とともに、自らの中に育んできた自信のようなものは完全に失われていた。

「どれくらいの音だったんです?」
 医者に聞かれた。ある時、店長が密かに計っていたデシベル数を教えてくれた。きりの良い数字だったので、今でも彼は覚えていた。専門家ではないので、その数値がどの程度のものであるか詳しい事はわからなかった。店長は嬉しそうに、とてもとても大きな数字だと言っていた。
 数値を告げると、医者は呆れた表情を浮かべた。
「それで良く鼓膜が破れなかったね」
 自分の鼓膜を見ながら、その通りだと彼は思った。こんな薄い膜が、壁も震わす音に耐えていたのだ。そして鼓膜の奥にあるという感覚器官の姿を想像した。きっと、疲れ切っている。年齢も年齢だし、これからは聴力が衰える一方だろう。
 彼女はあれからどうしたのだろうか、と彼は思った。彼ですら耐えられなかったのだから、誰も彼女の轟音については来れなかっただろう。
 不思議だった。あれほど印象的な出来事だったのに、彼女の事を思い出したのは二十年ぶりだった。
 カメラが外され、モニターが暗転した。
 彼はゆっくりと身を起こし、左耳を静かに抑えた。
 どういうわけか、彼女がまだ鼓膜の奥の闇の中に、じっと潜んでいる気がした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?