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ミステリーサークル

 沼の畔で行われる花火大会の数時間前の事だった。私は久しぶりに故郷に帰り、実家暮らしの妹とともに、会場へと続く水田のあぜ道を歩いていた。陽は沈みかけていて、藍色の空には灰色に橙色がかった雲が広がっている。雲間からの太陽光線が帯状になり、藍色を背景に幾重にも重なり合っていた。地平線に目を向ければ、雲が創り出す影を受ける水田の稲穂が一面に見え、風が吹くと水を張ったプールのように音もなく揺らいだ。
 私の目に、不思議なものが映った。炎だった。弱い火勢だったが、範囲は広い。きっと水田なのだろうが、何かが燃えていた。熱で空気が少し揺らいで、地平線がわずかに歪んでいた。あれは、何の炎なのかな、と私が呟くと、目が覚めるような青い日傘を持った妹は、何も答えなかった。そういえば、昔からあの炎を見かけたし、何度も両親に質問してみたが、今の妹のような反応をされた事を思い出した。
 蝉と水田に潜むウシガエルの鳴き声が重なり合い、私の聴覚を圧倒する。煩いとは感じなかった。特定の音域に注意を向けさせないその音壁は、私の集中力を分散させ、固い自意識を薄れさせた。だから、その音は私を抑圧するものではなく、解放させてくれる気がした。ふいに、一人の少年の顔が曖昧な状態で私の頭に浮かんだ。姿だけでなく、彼に関する周辺の記憶も曖昧だった。十年前の花火大会で、行方不明となった少年だった。あれ以来、誰も彼を見ていない。こんな田舎町では一大事であるが、不思議なことに話題にならなかった。私自身も話題にしなかった。夏が終われば消える蝉の鳴き声のように、彼も消えるべくして消えた、と私は思っていたが、その考えがいかに不自然なものであるか、いま気づいた。人が一人消える。年齢や性別に関係なく、それは大きな出来事に違いない。
「花火大会で、いなくなった子供がいただろ?」
 妹は、私の質問が聞こえない振りをした。
「覚えてないのか?」
 妹はただ微笑むだけだった。前を歩く人の影が細長く伸びて、水田の中にまで達している。影は本人たちの知らないところで、鋭角的な稲穂に刻まれ、細かく砕かれている。雲が創り出した日陰が、水田や畦道を舐めながら、ゆっくりと近づいてきた。影に入り込むと、熱をもった我々の皮膚は束の間の涼しさを味わされた。
「昔のこと、よく覚えているね」
 妹が呟いた。前を歩いていた人たちが、足を止め私たちの方に振り返る。あの小声が聞こえたわけがないが、妹の心と身体に連動しているように、彼らは足を止めた。私の思い過ごしかもしれないし、私の思った通りかもしれない。
「忘れた方がいいと思うか?」
 妹に尋ねてみた。少年の印象はそれほど残っていないし、親しくもなかった。妹に忘れろと言われたら、忘れるつもりだった。彼の行く末も、私のこれからの人生に、大きな影響を与えはしないだろう。
 しばらく歩くと、道の端に木の椅子に座る老人が見えた。花火の見物客とは思えない。老人の向く方向は、花火が上がる沼とは逆方向で、地平線を覆い尽くす水田が見えるだけだ。
「どうしたんです?」
 私が尋ねると、老人は細い人差し指を水田に向けた。私の鼻腔に焦げ臭い匂いが満ちた。水田の一部は焼き払われ、奇妙なマークが作り出されている。ひところ話題になったミステリーサークルというものだろう。この位置からではミステリーサークルの全貌が良く見えない。もし上空からなら、どういった形状なのかはっきりするだろう。そう思って空を見上げると、ちょうど大の字になった人間のような飛行機が空を渡っていた。あれが神様だったら、と小さい頃、私は思ったものだ。神様が空を飛んでいて、地上にいる私たちを見下ろしている。奇妙な考え方だがその考えにとりつかれると、目の前の風景が一変したものだ。自分の水田に対してこんな悪戯をしたのは、誰なのか知りたい、と老人は考えているのだろう、と私は思った。
「宇宙人の仕業ですかね?」と私が言うと、老人は微笑んだ。妹もつられて微笑んだ。蝉とウシガエルの鳴き声が混じり合っている。
「知っていますか? 花火大会で、消えた少年がいましたよね?」
 私がそう言うと、老人はまた微笑んだ。
 夜が来て、花火大会が終わって、私たちは帰路についた。炎はもう消えていた。急に空が曇り、雷鳴が鳴った。電車が一台通り過ぎた。一雨来そうだった。何とか、無事に家まで帰れそうだった。

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