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湖の怪物


 一年ぶりに見た父の姿は、死に向かって突き進んでいるとは言い難かったが、生き生きしているとも言えなかった。庭にある少しくたびれた木製の椅子に座り、鏡のように磨き抜かれた湖を眺めていた。湖面は青空と白い雲を映している。時々起る小さな波紋は、そこに魚が生息している事を示していたが、噂にのぼる湖の怪物の存在を物語るものはなにひとつなかった。
 私も二十年ここで暮らしたが、一度たりとも怪物を見た事はないし、その存在を感じさせるものには一度として出会った事がない。そもそも、この湖は七十年ほど前にできたダム湖であり、目撃証言による怪物、太古の首長竜が生息するには少し無理のある場所である。当然、父も怪物など見た事はないのだろうと私は思っていた。
 木製の椅子は昨夜降った雨により少し湿っていた。父は八十になり私は五十になった。怪物が騒がれたのは確か三十年ほど前だった。
 父は煙草に火を着け、水鳥が鳴く声に反応し眉をひそめる。父にとって、その悲鳴にも似た声が、どういった印象で受け入れられたのか、私にはわからない。
「大嘘さ」
 私は湖面を眺めながら、この湖に関して書き立てられた一連の噂に対する考えを呟いた。父とは怪物について話し合った事はない。下らない、些細な事だと思った。そんな事よりも、どうやってこの田舎町から出ていくか、という事の方が私にとっては大事であり、父にとっては、私をこの湖畔に縛りつけておく事の方が大事であった。私が二十の時にここから出ていった後も、わざわざ湖の怪物に関して語る事などしなかった。
「何の話だ?」
 父は煙草を雨水が溜まったブリキ缶に捨てた。火が消える音がした後、また水鳥の鳴き声が聴こえた。父の視線は鳥よりも、私に注がれていた。風が吹いて、湖面が揺れて、我々がいる草原も揺れた。空は陰り、遠くから雷の音が聴こえた。私はあわてて振り返った。家に洗濯物は干していなかった。
「湖の怪物さ」
 もちろん、私は湖の怪物の話をするためにここに来たわけではない。父をどうするのか話すために来たのだ。近所の人たちから、少し痴呆の症状が出ているのではないかと、噂されていた。母は四十年も前からこの家にはいない。子供は私をおいて他にはいない。朝から陽が暮れるまで湖を眺めているという父を放っておくわけにはいかない。
「いないと思うか?」
 父は少し指を震わせ、新しい煙草を取り出した。そして火を着け、湖面に目線を戻した。私は湖面が盛り上がり、ゆっくりと湖の怪物が姿を現す様を想像して身震いした。
「いるのかい?」
「たぶん、な」
 私は父に悟られないように小さくため息を吐いた。父の痴呆は思ったより進行しているのかもしれない。父はあまり冗談を言う人ではないし、思わせぶりな事を言って人を煙に巻く人でもない。真実、ありのままに物事を語るのが好きな人だった。だから私は父と居るのが息苦しかったのだ。
「見たのかい?」
 父は私の質問には答えずに、湖面を眺めている。煙草の火は、力なく垂れる父の指先にじんわりと迫る。私は父の呆けた表情よりも、父が火傷しないかどうかが心配だった。
「時々、家に来る」
 細長くなった燃え滓をブリキ缶に落とし、父は煙草を口に咥え、私の表情を見た。父の顔には恐怖が浮かんでいた。父の肩を叩いてやると、子供のように微笑んだが、すぐにまた表情を引き締めた。
「じゃあ、この家を出ようよ」
 すんなりと同意するかと思ったが、父は首を振った。
「もう五十年も前から家に来る」
 父の鋭い視線は湖面に注がれている。私は自分の視線を父のものと重ねてみた。湖面の下に何かがいると、私にも思えてきた。
「来たら、家が壊れるだろう」
 我々の家はごくささやかな大きさだ。草原の中に佇み、壁や屋根は木製だ。強い雨や風でも吹き飛びそうになる。怪物がいるならば、簡単に粉々にしてしまうだろう。
「人の姿をしていたよ。夜中、よく庭にしゃがみこんでいてな、灯りをつけると、湖の方に逃げていくんだ。いつも、灯りに照らされた足だけが見えた。子供の足だったな」
 父はそう言って、椅子にもたれ眠る体勢に入った。深い皺が刻まれた瞼は下がり、口がゆっくりと開く。
「そいつと話したことは?」
「あるよ」
 何を話したか聞こうとしたが、父はもう眠っていた。
 

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