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深呼吸のための余白に。//遠い向こう側の場所に辿り着く準備として。///8つの名前の人々/ジャン=リュック・ゴダールⅩ蓮實重彦Ⅹアンリ・マティスⅩ安西水丸ⅩカシワイⅩ村上春樹「街とその不確かな壁Ⅹ岸辺露伴Ⅹ荒木飛呂彦

/2023/6/21/19:02/
/8つの名前/ジャン=リュック・ゴダール、蓮實重彦、アンリ・マティス、安西水丸、カシワイ、村上春樹「街と不確かな壁」、岸辺露伴、荒木飛呂彦/

記録でもなければ記憶でもない。感想/印象/思考でもない。走り書いたメモですらない。強いてこれらを呼ぶならば、生の論理の記述の断章、あるいは物語以前の語りとなる。わたしの内部への旅の準備として招喚された8人。相反と離合と捩じれの渦の中を浮遊する言葉たちが風に逆らい立ち上がる。

8人を呼ぶために、つけられた名前、人と人のそれを巡る8+1個の断片は、
//深呼吸のための余白に/遠い向こう側の場所に辿り着く準備//
として書かれた。

ノンブルがことばのはじまりに付与されているが、組み立ての手順ではないいかなるかたちに於いても、いかなる意味に於いても、偶然の遊戯として、
/宙へ跳ぶための柔らかな羽根としてのことばたち/

/No.1//わたしのからだの中を流れる、純粋にして透明のこと/もの/

わたしの体を削ぎ落し後に残るものたち/ことたちは記憶だけだ。それ以外存在しない。記憶の容器としてのわたしの身体。わたしの肉と血は記憶を保存するためのものとして捧げられる。わたしの内臓は記憶の生存のために鼓動する。わたしの骨格は記憶の流れにかたちを与え、わたしの皮膚はかたちを生成する流れを包み込む。わたしの体のほとんどが海を起源とする水で作られているように、わたしの魂のほとんどが記憶で作られている。そして、それらの記憶に言葉が授けられていないということを言明しなければならない

/No.2//わたしはことばを読まなければならない/わたしはことばを書かなければならない/

そうだからこそ、そのことを根拠として、わたしはことばを読まなければならない/わたしはことばを書かなければならない。それに言葉が与えられる以前の透明さの純粋性に耽溺する記憶に、傷痕として言葉を刻み込む。名前のないものたち/ことたちが純粋性と引き換えに誰かに読まれ/書かれ/記憶されるもの/こととして世界に放たれる。何かが、わたしだけが所有していた何かのこと/ものが、わたしとわたし以外の誰かに共有されること。晴れ渡る空を仰ぎ見るような青色の夢。所有から共有へ。わたしだけのから誰でものへと

/No.3//愛の歌/Love songsのために/高貴さの喪失、だが、それは屈辱ではない/

そのことは高貴なるものであることの喪失かもしれない。わたしだけのもの/ことあなただけのこと/ものが、わたしのもの/ことでありあなたのこと/ものであるということ。そのことを理由として、共有が賤しいことであるならばわたしは歓びと痛みと伴にそれを全面的に受け入れよう。わたしの中の言葉ならざる無形の光と音響の記憶に、ことばが、誰かと伴に持ち得るものとしてかたちを与える。高貴さを剥奪される瞬間。しかしそれは屈辱ではない。愛の歌の誕生の一瞬なんだ。それは。愛の歌/Love songsとはわたしのためにあなたのために誰かのために、わたしから切り取られ離され世界に捧げられたわたしの記憶/血と肉なんだ。祝福しよう。愛の歌/Love songsの誕生を

/No.4//雨、地上を覆い尽くしわたしを壁の、ように包囲する夥しい量の水/

雨雨雨、地上を覆い尽くす夥しい量の水。雨音が雨音以外の音を飲み込み雨音の壁の中にわたしは包囲され存在する。〈雨音に世界を聴く〉というあまりにも凡庸なテーゼを持ち出すまでもなく〈雨音から世界が聴こえて来る〉
夜の闇の中で雨音に閉じ込められていると、まるで世界の終わりの最後の人のような気持ちになってしまう。わたし以外、世界に人は存在していない。
夥しい量の水が世界を内部に入れ込み、わたしを世界の終わりの人としてしまう真夜中の時間。そんな時は小さな灯の許で小説を読まなければならない

何度も繰り返し読んだ、登場人物も出来事も彼ら彼女らを待ち受けることになる非情な宿命も結末も完璧に同じであるはずの、読み慣れたいつもの小説でも雨音の轟音の中でそいつはいつもとは違う相貌を現わすんだ。まるで、夥しい量の水と結託したかのように、悪霊的なるものとして、わたしを追い詰め始める。だけどわたしにはわかるんだ。物語もまた怯えていることに。圧倒的な水に。だから終わりまで読むんだ。物語よ、大丈夫、心配しないで逆巻く水に灯りが揺れ部屋が軋む。夜が終わるにはまだ長い時間が必要だ。世界の終わりの最後の人として小説を読む。それはそれで素敵なことなんだ

/No.5//ジャン=リュック・ゴダール/Jean-Luc Godard(1930/12/3〜2022/9/13)/

ジャン=リュック・ゴダールの映画の断片の美しさ。そうではない。事態は逆だ。断片が美しいということ。断片でしか出現することのできない一瞬。世界の一瞬。生の一瞬。瞬間が美しいということ。その瞬間が永遠であるということは言うまでもない。無数の断片/一瞬の接合としての映画。映画とはわたしたち人間がいまこの瞬間を生きる事しか許されていないという厳粛なる論理の物質的/フィルム的/映像Ⅹ音響的解であり、映画を観るとは、人の生のありようの孤独なる勝利に身を投じることであり、わたしたちはいかなる意味に於いても自由であることを示す。ジャン=リュック・ゴダール映画それは、わたしたちが自由であってもよいのだということを教えてくれる

/No.6//アンリ・マティス、線と色彩/絵画は、未だ未開の状態にある。/

Henri Matisse《金魚》/1912年/油彩、カンヴァス/140 cm x 98 cm/プーシキン美術館所蔵

アンリ・マティスの絵画のことは、未だに誰もそれが何であるのかわかっていない。誤解されているのではない。アンリ・マティスの絵画はいともたやすく人をここちよくさせてしまう。難解な迷路も閉ざされた扉も不穏の欠片も背後に忍び寄る影の気配さえ存在しない。ひかりの溢れる明解な線と明解な色彩。彼の絵画は理解された。しかしそれはアンリ・マティスの絵画を絵画として限定した結果によって引き起こされた必然でしかない。アンリ・マティスの絵画とは絵画でありながらもそこから逃亡/追放されること/ものを掴まえようとする行為なのだ。ヴァンスのロザリオ礼拝堂の眩暈のするような美しさが、アンリ・マティスの絵画がいかなるものであるのかそれが未だ未開の状態にあることを、わたしたちに告げている。彼の到達点であるはずのそれを出発点とすること。それがアンリ・マティスの絵画を解き放つ。

/No.7//アンリ・マティス、線と色彩/安西水丸からカシワイへと継承される/

アンリ・マティスについて忘れてはいけないことがある。アンリ・マティスの線と色彩の継承者について。安西水丸だけが安西水丸なりの方法でそれを継承する/していた。とわたしは思っている。アンリ・マティスの線と色彩が見つけ生み出した光と音響は、安西水丸のイラストレーションの中で、安西水丸印を刻印された安西水丸の線と色彩として生まれ変わり引き継がれた。

安西水丸によって、わたしたちは日々の時間の中に、アンリ・マティスの線と色彩だけが抽出することのできた、繊細にして最高の光とかたちを得ることになった。ひかりとかたちがわたしたちにもたらしてくれるもの/ことの、軽やかなる秘密が手渡される。ありがとうマティス、ありがとう水丸さん。

継承者は他に存在しない。(たぶん)。では安西水丸の継承者は存在するのだろうか?(存在する。おそらく)。ひとりだけ、想い当たる。その名はカシワイさん。はじめて名前を聞く人もいるのかもしれない。カシワイさんのことはあらためて一文を書きたいと思う。今回は、仮にカシワイさんのことを知らない人がいたとしたら「よろしければ、一度、その作品に触れてほしい」という思いから、少しだけ。Twitterもされているので、最新の情報も!

アンリ・マティスから安西水丸経由の線と色彩がカシワイさんへ。カシワイさんは線と色彩に博物学的自然科学的な構造と仕組みを持ち込み、さらに物語を付与し時間を吹き込んだ。アンリ・マティス/安西水丸/カシワイのひかりと音響の系譜。アンリ・マティスの未開の絵画が人間の根源に根拠を持つ証左として系譜が存在する。わたしたちは今もマティスの絵画の只中にある

/No.8//村上春樹「街とその不確かな壁/書き終えることができない/100パーセントの長編小説

数千字書いて、全部棄てて、数千字書く。何度書いても、書き終えることができない。一時的に中断。プロローグとエピローグの途中とはじまりのところまで。村上春樹さんの最新長編小説「街とその不確かな壁」について書くことは、村上春樹さんの長編小説の駆動装置の構造と仕組み、そして装置を稼働させる人間の生のエネルギーの出入りについて解明することになる。それは村上春樹の巨大な小説群が形成する険しく複雑な稜線を、〈何かしらの方法で〉踏破しなければならないことを意味している。何かしらの方法で。

「街とその不確かな壁」は小説の形をしているが、それは村上春樹さんによる自身の長編小説の解読/解説でもある。当然のことながら、そのことをもってして、小説としての完成度の不安定さや描写の種明かし的な説明過剰さが批判されてしまうことになる。批判の半分は正しいが、批判の半分は誤りだとわたしは思っている。「街とその不確かな壁」を100パーセントの小説として読んでしまうとそうなってしまう。小説家によってなされる小説による小説の解き明かし。そんなことしてはいけないよ、とわたしは思うのだが。

村上春樹さんがなぜこうした形式/方法を用いたのか疑問は残る。だが小説家もまた自画像を描くことから逃れられなかった。裏返して言えば、誰も小説家・村上春樹の肖像を正確に描写してこなかったことの必然的な論理的帰結とも言える。賞賛と罵倒は存在しても批評が存在しなかったということ。何だかそんな風に考えてしまうと「街とその不確かな壁」は書かれてはいけない小説のような気さえして来る。「街とその不確かな壁」の細部と全体には避け難き痛々しさが存在している。小説家が小説としてわたしたちに提示したものを、わたしたちはそのままの形で受け取らなければならない。一度は「街とその不確かな壁」を小説として。わたしがこの小説について書き終えることができない理由は明白だ。「街とその不確かな壁」を小説家・村上春樹の自画像ではなく100パーセントの長編小説として読んでいるからなんだ

壁の中の街が小説家・村上春樹を誕生させ、その場所から巨大な長編小説が生まれた。もうひとつの「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」であり、村上春樹の長編小説の始まりにして終わりなんだ。終焉の小説

壁はわたしを閉じ込めるものでもあり、わたしを守ってくれるものでもある村上春樹の長編小説は長い間、わたしを守ってくれた。仮に誤りだったとしても、わたしは100パーセントの長編小説として「街とその不確かな壁」についての文章を最後まで書き終えて、必ずnoteにリリースしたいと思う。

//No.9/岸辺露伴 ルーヴルへ行く/ROHAN AU LOUVRE/漫画の王 タブローの墓所へ/

荒木飛呂彦の漫画を映像として翻案したものの多くが無残な敗北を喫している。それも徹底的に打ち負かされて。不可解なのは、荒木飛呂彦の漫画が映像を拒否しているからではなく、反対に映像を肯定し求めているにもかかわらずに、である。荒木飛呂彦の漫画は映像を欲望している。しかし、映像は漫画にことごとく敗北する。荒木飛呂彦の漫画を前にして映像が敗北する。

敗北の理由はシンプルだ。漫画の離散的な時間と空間を映像の連続的な時間と空間が破壊しているからだ。荒木飛呂彦の漫画は漫画という形式が持つ、時空の離散性に物語の進展を深く強く根源的に依存している。彼の作画の流麗さとけれんに目を奪われてしまうと見誤ることになる。漫画の豊饒性を支える基盤としての時空の離散性。映像がその離散性の描写不可能性に立ち尽くす。漫画が欲望する映像とは離散性の極限値であるということ。離散と相反する連続ではなく、離散の向こう側としての連続。しかし、こんなことを言い募ったところで、彼の漫画を映像として翻案することが可能となるわけでもない。荒木飛呂彦は漫画が漫画であることの根拠を誰よりも熟知している。荒木飛呂彦の漫画は漫画の中の漫画なんだ。漫画の王様・荒木飛呂彦。

本来、漫画という形式はそうしたものだった。しかし、老練にして狡猾なる日本のアニメーション映画監督の手によって、漫画は懐柔され映像のためのツールと化してしまった。絵コンテ化した漫画。映像の残像として、かりそめの離散性が漫画にもたらされ、漫画家は落穂拾いのようにして画像を拾い搔き集め、あたかも映像の残り物をありあわせるかのようにして、それらを漫画に仕立て上げる。何という屈辱!今日もまた映像に媚びる漫画(のようなもの)が生まれ、映像として成就することを願望する。何という倒錯!

タブローの墓所・ルーヴル(そうではなく)タブローの栄光の地・ルーヴル歓喜と呪詛と美の場所・ルーヴルに荒木飛呂彦の分身である岸辺露伴が姿を現わす。レオナルド・ダ・ヴィンチのモナリザを前にして、黒マントに身を包みゆらゆらと陽炎のように立つ。荒木飛呂彦から岸辺露伴、岸辺露伴から高橋一生へと分身を重ね、タブローの森の中を人影のように歩む。漫画の王がルーヴルの内部を静謐の中、動く映像。もはやそれだけで十分ではないだろうか。ルーヴルを疾走する王の映像は、次回のお楽しみということで。

岸辺露伴に高橋一生を、泉京香に飯豊まりえを、得たこと、映像が漫画に勝利するすべてだ。

記憶に復讐されること。その歓びと悲しみ。忘れていたはずのものたち/ことたちが黒の中から這い出るようにして姿を顕す。禍々しい姿をしたそれらは懐かしきわたしの血と体。かくして円環は閉じられる。風立ち、複数の人を巡る断片が柔らかな羽根のことばとなり、出発の準備として、遠い向こう側の場所に辿り着くために旅人の背中に抱かれる。深呼吸のための余白に。//

/生の論理の記述の切れ端として、あるいは、物語以前の破片として、〈一時的なる了〉/

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