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千葉雅也「エレクトリック/〈電子感覚〉の氾濫する電気仕掛けの宇宙/ 非存在と存在が重ね合わされ波が誕生する。//、あるいは悪魔祓い、そして、レクイエム

/革命前夜、その光景について/
/あるいは、現在の時間の中で哲学を行うこと、哲学者であることの意味/

哲学者が観念と格闘/闘争し科学者が物質を解剖/解体し芸術家がイメージ/像と遊戯/舞踏する。宇宙のマテリアルとしての物質と観念とイメージ/像。 言葉がその格闘/闘争と解剖/解体と遊戯/舞踏を貫通して行く。物質と観念とイメージ/像の祝祭のプロモーターにしてディレクターである言葉。言語こそが物質と観念とイメージ/像の手配師だ。世界は言語によって物質と観念とイメージ/像に腑分けされ、言語によって物質と観念とイメージ/像が統合され世界が出現する。言語だけが物質と観念とイメージ/像の相互的結合と分解を可能にする。宇宙の統合者の言語が物質と観念とイメージ/像を合流させる。
 
哲学と科学と芸術は全く異なった形式/内容で世界を記述しているのだが、言葉のもとでそれらが統一され単一の全体性の中で接合し再構築されることさえありえるのだ。中沢新一のカイエ・ソバージュ(Cahier Sauvage)の言葉を引用するならば再構築は「第三次形而上学革命」と呼ばれることになり、今この時は革命前夜となる。わたしたちの夜、その三度目の革命の前の夜。

しかし、言うまでもないことだが、それが宗教(的なるもの)ではないことだけは確かだ。終わってしまった栄光の日々の郷愁と現代の哲学と科学と芸術の無力さに嘆き、崩壊した神々の残骸の切れ端を搔き集め寄せ集め、寄木細工のように神々をかたち作っても、同じことがくりかえされるだけでしかない。また、現代自然科学の延長線上にもそれは存在しない。主体から純粋に分離している客体しか記述の対象にすることのできない、現代自然科学は哲学、芸術が扱う事柄と接合することは原理的に不可能となっている。現代自然科学の圧倒的な勝利とその限界は主体からの離反と自由に根拠を持つ。

誤解のないように、明確に書き添えるけれど今更だけど「第一次形而上学革命」は宗教であり「第二次形而上学革命」は自然科学である。わたしたちの未来はその向こう側にある。宗教と科学を超えた場所にわたしたちの未来が存在している。宗教と科学の勝利と敗北。宗教と科学の地平線の向こう側。そのことをわたし/わたしたちは何度も言わなければならない。数々の輝かしき勝利に酩酊し敗北を忘却し、再びの誤りと失敗と悔恨を行わないために。

物質と情報の饗宴が日々の暮らしとなり、書割のような贋作の神が日々の人人を救済する振りをする神々の黄昏の時間の中で、客体の論理からの超越を放棄した科学が君臨する世界の中で、主体と客体を貫く〈根源的なるもの〉を探し求める者たちが彷徨うことになる。一時的な仮称として、哲学者か科学者か芸術家である者たち、それらの幾つかを重ね合わせた者たち、あるいは、その何れでもない何ものでもない者たち、彼ら彼女ら彼ら彼女らではない者たちが見つけ出す〈根源的なるもの〉がひとつ/複数の言葉で宇宙を記述することになる。物質と観念とイメージ/像を撃ち抜くひとつ/複数の言葉。

No.1:千葉雅也は小説家なのか?、それもまた、正しくもあり誤りでもある。あるいは、小説「エレクトリック」は哲学者・千葉雅也の余技(専門外の技芸)じゃない。/そして、小説のタイトルには小説家の秘密が隠されている。

哲学/哲学者の言葉と小説/小説家の言葉が表面的に見掛け上同じもののように見えて、本当は全く異なる別のものであることを示すために、哲学とは何であるのか、小説とは何であるのか、少しだけほんの少しだけ、凄く凄くシンプルに疾走するように話したいと思う。そんなことをわたしが十全に語ることなんてできはしないんだけど、千葉雅也の「エレクトリック」について話すためには避けることができないんだ。「エレクトリック」は小説なんだけど、でももしかしたらこれは小説ではないのかもしれないんだ。別の何か
 
小説「エレクトリック」は哲学者の余技じゃない。とわたしは思っている。では、千葉雅也は小説家なのか、それもまた、正しくもあり誤りでもある。小説の創造者を小説家と呼ぶのであれば千葉雅也は小説家であることは正しいことになる。だけど、それは「エレクトニック」が小説であることを前提にしている。仮にその小説が小説ではなくもっと別の何かであるとしたら、急速に千葉雅也が小説家であることが自明ではなくなってしまう。どうどう巡りはこれくらいにして、哲学とは何であるのか、小説とは何であるのか、
をビユンビュンと後ろを振り返らずに前だけを見て駆け足で語って行こう。
 
そして「エレクトリック」とは何かをわたしなりに言葉で言い表してみよう
 
「エレクトリック」はタイトルが表しているように〈電気的/電子的〉なんだ「デッドライン」「オーバーヒート」「マジックミラー」千葉雅也の小説のタイトルはいつも存在のありようのかたちそのものだ。千葉雅也がそうすることには鮮明な理由があり、そのことがこれが何かであるのかという問いの応答へ導くことになる。小説のタイトルには小説家の秘密が隠されている。

No.2:〈概念(concept)〉の機械としての哲学/材料・素材化された言葉が〈概念(concept)〉を作り出す。/哲学の言葉は小説の言葉と違う。

/〈概念(concept)〉の機械としての哲学/
哲学とは〈概念(concept)〉の機械であり、〈概念(concept)〉の建築である。従って哲学者とは〈概念(concept)〉の機械の設計者/製作者/技術者であり〈概念(concept)〉の建築の建築家/建造職人/技術者である。哲学は〈概念(concept)〉を組み合わせたテーゼの機械であり伽藍である。無数の哲学が世界には存在しているが、全てが〈概念(concept)〉を原子として分子として合成されている。だから哲学を構築する哲学者が行うことは、始めから終わりまで〈概念(concept)〉の創造であり破壊となってしまう

/わたし/わたしたちの内的な世界と外的な世界をつなぐ言葉/意味/
わたしが感じていること思っていること考えていることを表現し、あなたにそれを伝えるためのものとしての言葉。言葉がわたしが感じていること思っていること考えていることに、かたちといろと見出す。不定形で不明な何かが言葉によって意味を持つ。それがわたしの外へと向かう。言葉はわたし/わたしたちの内的な世界と外的な世界をつなぐ。意味の入れ物であり乗り物である言葉。意味の容器としての言葉。言葉の容器の内容としての意味。

/意味の誕生/言葉の誕生/
意味は単数/複数の主体と客体が混在し融合と分裂を繰り返す混沌と秩序の時空の中で生成消滅する。時空の中で何かしらの作用を外へ与えるひとつのかたちとして形成されるひとつのまとまりの何かが意味として抽出される。まだ命名されてない裸の赤子の意味。言葉が生成した瞬間の意味を自身の中へ取り込む。あるいは、生成したばかりの意味自身が崩壊しないように自ら外皮を作って種子のように意味を保存する。新しい意味は言葉という容器/種子の中に保存される。意味の誕生と言葉の誕生。入れ物とその内容物。
 
/単数から出現する抽象の姿をした意味である〈概念(concept)〉/
〈概念(concept)〉とは世界にこれまで存在していなかった新しい抽象のことでありその意味のことであり、それは単数の主体と客体によって作り出される。単数から出現する抽象の姿をした意味。出自がひとりから生まれたことによって〈概念(concept)〉は既存の単語で言い表すことが不可能なものとなる。さらにそれが抽象であるために、敢えて単語で表現しようとすれば奇妙な造語を使うしか方法はない。〈概念(concept)〉を記述するためには、既存の言葉を捻じ伏せ変形させ引き延ばし圧縮し文を組み立てる他に方法はない。論理と意味が複雑に入り組んだ〈概念(concept)〉を表現した文章を前に人々は右往左往することになる。そうした意味において、〈概念(concept)〉は従来の言葉ではない。そこに意味は存在するがそれはまだ言葉になる以前の言葉ならざる不定形の言葉であり未来の言葉である

/〈概念(concept)〉の機械である哲学はつねに既存の言葉より先行する/材料・素材化された言葉が〈概念(concept)〉を作り出す。/

〈概念(concept)〉の機械であり構築である哲学の行為はつねに既存の言葉より先行する。哲学が書かれてある文章が難解なのはそうした理由がある好き好んでそうしているわけじゃないんだ。哲学の文章の中の言葉は〈概念(concept)〉の材料/素材としての言葉だ。それは単数/複数の主体と客体を超えて世界の中に浮遊している意味を、壊すことなく崩れることなくそのままの姿かたちで大切に入れておくための入れものとしての言葉でない。哲学の言葉は言葉を〈概念(concept)〉を作るための道具(ツール)として使う。喩えれば、箱を作るために木の板を用意し立方体を組み立てることに似る。「箱」という〈概念(concept)〉とそれを作るための材料/素材である「木の板」という言葉。方法の言葉が使い尽くされ目的の概念が生まれる。

材料/素材化される言葉。〈概念(concept)〉を産出させるための仮構のための言葉。哲学の言葉を書くこととは言葉を材料とし〈概念(concept)〉の機械を製作することであり、哲学の言葉を読むこととは言葉という材料からなる〈概念(concept)〉の機械を起動させることである。書かれた哲学の言葉は概念のための仮の材料/素材でしかない。いついかなるときも。

 No.3:〈有限の中の無限〉の宇宙としての小説/あるいは、小説は宇宙のマテリアルとしての物質と観念とイメージ/像のすべてを内包する。

/小説という形式の怪異性/〈有限の中の無限〉の宇宙としての小説/
表現の形式の中で小説という形式が持つ怪異さにまさるものは存在しない。
小説が有する怪異性の根源はそこに無限が内包されることにある。有限の中の無限。無限が入れ込まれた有限の物質。小説とは無限を封印することが出来る有限の物質で構成された有限の容器であり、合理の存在であり非合理の存在だ。長編小説ともなれば自身の怪異性によって表現は自壊と再生の混沌と秩序の錯綜した巨大な鯨のような都市の様相を帯びることになる。言語製の物質と観念とイメージ/像の存在の全てが小説という形式が生み出す有限の中の無限の場所で自由となり、論理をやすやすとするする超越して行く。裏返せば、無限がそこに存在しなければそれが小説となることはできないということになる。〈有限の中の無限〉という不可解な事態を飲み込むことができない者は、小説を読むことはできないし小説を書くことはできない。小説のようなものと小説の決定的な違いがそこに存在している。当然のことながら小説家とは無限を素手で掴み取り有限の物質の中に閉じ込める魔法使いということになる。小説という非合理を取り扱う者は魔法を使う者なのだ。

/小説を物語、あるいは、世界の描写と限定してしまうとそのことが分からなくなる。/言葉が宇宙を作り出すことができること、怪異性と非合理性。/

小説を物語を物語るための方法、あるいは、世界を描写/記述するための方法として限定してしまうとそのことが分からなくなってしまう。物語と描写を否定しているのではない。物語になることのできない物語から零れ落ちる非物語、描写することのできない描写から溢れ出る非描写、それらの物語でも描写でもない言葉たちを小説は排除することなく棄てることなく拾い上げることができる。宇宙のマテリアルとしての物質と観念とイメージ/像の全部が小説の内部に吸い込まれ内包される。意味と無意味と非意味のすべて。そのことによって小説は宇宙になる。「宇宙的」なのではない。小説は宇宙なんだ。物理的物質的有限的存在の小説宇宙。言葉が宇宙を作り出すことができるということ、その怪異性と非合理性。小説は実在する物質的非合理なんだ
 
小説の言葉は哲学の言葉のように〈概念(concept)〉でもなければ〈概念(concept)〉の機械/建築でもない。また〈概念(concept)〉を作るための材料/素材として限定されたものでもない。小説の言葉は宇宙であり宇宙の断片であり、その言葉を切り取れば肉体から血が滴り落ちるようにして、そこから無限が溢れ出て来ることになる。宇宙の身体としての小説の言葉たち
 
哲学/哲学者の言葉と小説/小説家の言葉は同じもののように見えて、全く異なった別のものなんだ。〈概念(concept)〉の機械/建築と宇宙の身体。同じ言葉でありながらも、それらは全然別のものを形成し生み出している。

 No.4:革命前夜の哲学者・千葉雅也はいかにして小説家となったのか。/哲学者もまた身体を持つということ、そして、行為するということ。

革命前夜の時間の中の哲学と哲学者であること、その意味。そして、小説と小説家であること、その意味。〈概念(concept)〉の機械/建築の工作者/破壊者である哲学者と宇宙/ラビリンス/コスモスの小説の創造者である小説家現代の日本の中で哲学者であり、尚且つ同時に、小説家であること。千葉雅也の場合、それは当然のこととして実行される。哲学者・千葉雅也は自身の哲学を敢行するために小説家となる。千葉雅也の言葉には全く異なる哲学の言葉と小説の言葉の両方が必要なんだ。余技(専門外の技芸)ではない。
 
哲学の外にあるもの。〈概念(concept)〉の機械の外部に存在するもの。哲学者がその哲学の思考を駆動させる時、必然としてその外部が姿を顕す。〈概念(concept)〉の外側。宇宙のマテリアルとしての物質と観念とイメージ/像。観念の闘争としての〈概念(concept)〉の機械が砂塵を巻き上げごうごうと轟音を唸りながら地平を疾走する。外側で宇宙のマテリアルとしての物質とイメージ/像が犇めき合う。哲学者は慄く。世界の存在のありようの謎を解明しようとする哲学の営為の切実な実質さと避け難き空虚さ。物質とイメージ/像が哲学者を誘惑する。哲学が物質とイメージ/像を渇望する。

哲学者・千葉雅也が行為する。身体を使って。航跡として宇宙のマテリアルの物質とイメージ/像が騒めき立つ。哲学者もまた身体を持つということ、そして、行為するということ。その自明でありながらも必ずしも自明ではないこと。思考と行為。哲学者・千葉雅也は身体を持つ哲学者として思考と行為の間を反復する。物質と観念とイメージ/像の森の中で千葉雅也の身体が木々と伴に風に揺れ葉と体表が擦れ合い音を立てる。あるいは、物質と観念とイメージ/像の海の中で千葉雅也の身体が魚と鯨の群れと伴に水に抗い水流と体表が捩じり合い渦が生まれる。〈概念(concept)〉の機械が組み立てられ駆動し観念が氾濫し思考の音楽が奏でられ、同時に、行為の無数の軌跡が、物質とイメージ/像のドローイングとして描出され、宇宙の身体が誕生する。
 
革命前夜の哲学者・千葉雅也が小説家になる。言葉たちが宇宙の身体となり小説の言葉となる。身体を持ち行為する哲学者として、その哲学として、その哲学ならざるものとして、物質と観念とイメージ/像のドローイングとして宇宙の身体として、小説を書く。千葉雅也の体の行為が小説宇宙の中で言語製の物質と観念とイメージ/像となる。無限を内包する有限の物質である小説の創造者・小説家。千葉雅也は魔法使いとなり〈概念(concept)〉の機械/建築の外部に出る。それは哲学者・千葉雅也による小さな革命でもある。

 No.5:「エレクトリック」/氾濫の〈電子感覚〉/洪水的ラスト・シーン/存在と非存在が重ね合わされ波が誕生する。

電気仕掛けの宇宙、千葉雅也の小説「エレクトリック」。機械仕掛けの宇宙ではなく電気仕掛けの宇宙。そこでは〈電子感覚〉が氾濫し溢れ返っている〈電子感覚〉とは目では見ることのできない微細で俊敏な電子的存在が生成する不可視の電気的作用が、世界の存在のありように作用し決定するという感覚であり、揮発性の芳香を漂わせ弾ける瞬間性と分解し散逸し欠片となって行く崩壊性と予期することなく襲来する稲妻のような突然性が混合した、ソリッドでありながらもフラジャイルな感覚だ。〈電子感覚〉には必然が決められたはずの行き先を見失い彷徨う迷路の複雑性と、偶然が無造作に投げ出され落下して行く場所の受け取ることになる恩寵の単純性が交錯している

「エレクトリック」にはそうした〈電子感覚〉が満ち溢れている。出来事は歯車と梃子と滑車と車輪で作られた機械仕掛けの宇宙の軋む重量的な出来事とは異なり、空中での無重力的な浮遊の遊戯を思わせる。幾人かの登場人物たちが用意された舞台で物語を語るのだが、それはまるでプラスチックと金属のボディにアルミ箔で編まれた衣装を着たパペットが織り成す劇のようにも見えるのだ。パペットには血も流れこころも肉体もあるのだが、存在のありようが何処までも〈電子感覚〉で満たされ、内的もつれさえもドライだ。
 
ラスト・シーンが「エレクトリック」の相貌を決定付ける。これが他のものであったとしたら小説は全く違う表情を持ったものになってしまっただろう「エレクトリック」のラスト・シーンは圧倒的で衝撃的だ。〈電子感覚〉が序破急を破り直角に収斂し、存在と非存在が重ね合わされ波が誕生する。
〈千葉雅也小説宇宙〉が開闢の音を響かせ波が海となって世界を覆い尽くす

No.6:悪魔祓い、そして、レクイエム/記憶に花束を捧げるために

雷都・宇都宮、英雄の父、母、妹、家族、家、思春期の時間と空間、そして記憶、千葉雅也はそうした自身の生の時間と記憶の断片を小説の中に放り込み解き放つ。千葉雅也の内的世界にしか存在し得なかったそれらの断片が、言葉となって小説宇宙へ飛来し一部となって行く。それは快楽でもあり痛みでもある。自身から切り離されることによる痛みと宇宙となり永遠となることの快楽。千葉雅也の小説は必然的に悦楽と痛みの綯い交ぜとなる。そのことが千葉雅也の小説に透明性をもたらす。混濁性の彼方としての透明性。

失われてはいけない壊れてはいけないものたちとことたちが、小説の中で、永遠の時間と空間として保存される。ノスタルジアとメランコリア。哲学者として哲学を行うことではそれはなく、千葉雅也は小説家になることでしかその記憶に花束を捧げることができなかった。千葉雅也は小説を書くことによって、自身に取り憑く生の時間と空間とその記憶を祓うことになる。その小説は、或る意味において、悪魔祓い、であり、そして、レクイエムなのだ

あとがき1:〈電子感覚〉の系譜/あるいは、物質と観念とイメージ/像の手配師たち。/稲垣足穂と澁澤龍彦と、ジョゼフ・コーネルとベルナール・フォコンと鴨沢祐仁とまりのるうにいとムットーニと、それからそれからそれから。

Bernard Faucon

〈電子感覚〉の系譜について、少しだけほんの少し。〈電子感覚〉の系譜と物質と観念とイメージ/像の手配師たちについて語り始めると終わることができなくなってしまうんだ。〈電子感覚〉の雲を身に纏う彼ら彼女ら彼彼女ではない何ものでもない者たちが、物質の重力から観念の拘束からイメージ/像の執着から自由になり、物理と内的葛藤と妄想的固着から無縁に、宇宙のマテリアルとしての物質と観念とイメージ/像の間を変幻自在に浸透し横断する

 星の王様・稲垣足穂、暗黒のプリニウスにして想像力の結晶の幾何学者であり狩猟者にして錬金術師・澁澤龍彦、夢の箱の庭師・ジョゼフ・コーネル、正方形の永遠の写真家・ベルナール・フォコン、、ブリキ細工の形而上学の絵師・鴨沢祐仁、真夜中の時間仕立てのパステル料理人・まりのるうにい、遊星と彗星を司る天界の機械技師・ムットーニ、それからそれからそれから 

〈電子感覚〉の系譜に連なる者たちが、今日もわたしの夜の夢の中で賑やかに遊泳している。乾いた透明なひかりとやみに包まれわたしは自由になる。人として生まれ人の体を持ち人の生の枠の中でのたうつわたしが宇宙のマテリアルとなり自由になる。わたしは物質であり観念でありイメージ/像であり、同時に、物質ではなく観念でもなくイメージ/像でもない。〈電子感覚〉に彩られし物質と観念とイメージ/像の手配師たちに、手を引かれてわたし/わたしたちは未来の言葉への道行きに向かうことになる。夜のその奥の中で 

千葉雅也「エレクトリック」、〈電子感覚〉の系譜に外伝として記録する。


Bernard Faucon
Joseph Cornell
鴨沢祐仁

あとがき2:倫理としての「哲学」、、あるいは、倫理以前の世界の存在の仕組みとありようを記述するための哲学

時折りではなくしばしば、人は生き方、矜持、作法なりの規範に「哲学」という名称を与えることがある。日々の人人の暮らしの中で。動物であることから離脱し自由になった結果、自然から追放された不定形な人間の生の営為の方向性を決めるために必要な羅針盤と地図。その呼び名として「哲学」。わたしたちにとって「哲学」とは無数の道が描かれた地図であり選び取られた歩むべきひとつの道筋と辿り着くべき場所である。認識と規範が混然一体となり、認識は規範のためのものとして規範は認識のためのものとして相補的に存在する。人が人として行うべき守る倫理的な事柄としての「哲学」。
 
しかし、ここではそうした意味での「哲学」ではなく、世界の存在のありようを解き明かし仕組みを記述するものとして哲学を捉えた。規範の前に世界が存在しているとわたしは思っているからだ。規範と認識を分離することが困難なことは承知しているつもりだ。哲学が明らかにするものは必ずしも人に優しいものではない。世界の存在のありようは人にとって残酷なものなのかもしれない。それでもその地点からしか人は生きることができないとわたしは思っている。人として行うべきことを人が行うために哲学が必要なんだ
倫理以前の世界の存在のありようを記述するための哲学、それが必要なんだ

あとがき3:「第三次形而上学革命」としての中沢新一のレンマ学の試みについて。/物質界を人間を通して観念とイメージが変更する回路が存在する

「第三次形而上学革命」としての中沢新一のレンマ学の試みが有効か無効なのかわたしがそれらをどのように考えているのかはここでは書かない。レンマ学の野心的試みを諸手を挙げて同意するつもりはない。でも全面的に否定し拒絶するつもりもない。そこには数え切れないほどの驚異と疑問がある。
 
粘菌の挙動をロゴスではなくレンマでしか理解できないという認識は誤りではないかという疑問。同様に現在の量子力学理論は厳格にロゴスによって記述されている。仮にそれが不完全なものであり観測されている事象を正確に説明することができない部分があるからといってロゴスを否定する理由にはならない。と思う。天動説から地動説へ、ニュートン力学からアインシュタインの相対性理論へ、そして、量子力学へと変転して行く。しかし、だからと言ってロゴスが否定されたわけではないし、ロゴスが限界となったわけでもない。物質界を理解する方法として現代自然科学が用いているロゴスは、依然として強大な力を有しその理を解く唯一の方法であり続けるだろう。

世界は物質界だけで成立しているわけではない。そこには観念もあればイメージ/像もある。物質界の法則だけでは歴史の歯車の回転を説明することはできない。フランス革命も本能寺の変も世界大戦も核兵器の出現も、それらは物質と観念とイメージ/像が撚り合わせられた物質界の法則を超越した、宇宙的事象であり、それを統合的に解明し記述する方法は未だ存在しない。
 
観念とイメージ/像が人間という存在を通して物質に作用することは明白だ。物質界を観念とイメージ/像が変更する回路が存在する。しかし「第二次形而上学革命」の現代自然科学は物質と観念とイメージ/像の相互作用については完全に無力だ。だからどうしても「第三次形而上学革命」が求められるんだ

レンマをロゴスの中に組み込みことはできなしロゴスもまたレンマの中に組み込むことはできない。しかし、理由も仕組みも分からないが人間の内部ではロゴスとレンマが共存し協働している。難解で複雑な屈折した謎の話だ。

千葉雅也の「エレクトリック」の〈電子感覚〉。〈電子感覚〉が理法/論理/言/ロゴス(logos)を超えて世界に回遊している。「第三次形而上学革命」革命前夜の時間の中で哲学者/小説家・千葉雅也の言葉がわたしたちの前で、繊細に華麗にダンスし、閃く光のようなステップが空中で仮固定されて行く

あとがき4:〈千葉雅也哲学〉の全貌のためのスケッチ/あるいは、哲学の外部と内部をつなぐもの/千葉雅也さんを巡る幾つかのリンク。

仮定として千葉雅也の哲学を以下のような数式で記述し、という話は・・・えっとうんと、またの機会にしよう。凄く長くなっちゃうからね。あとがきが本編より長くなってしまう。本当はこの記事は小説「エレクトリック」が単行本として刊行されてから書影も含んだものとして書こうと準備されたもの。千葉雅也さんの小説の本の装丁はすごく素敵なんだ。でも刊行を待っていたらいつまでたっても「エレクトリック」の記事がリリースできない!
 
とにもかくにもとりあえずこれにて本日の講談は御仕舞(べんべん/張扇!)   〈了〉の前にすっと千葉雅也さんを巡るリンクを挟み込む。(べんべん!)

〈了〉

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