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現在の日本における最も高度な散文の書き手としての千葉雅也さんの場合

今回は現在の日本における最も高度な散文の書き手のひとりである千葉雅也さんの散文を手掛かりに、「散文」とは何か? ということを考えてみたいと思う。千葉さんはこのnoteにも「生活の哲学」というマガジンを発行されている。千葉さんは小説の第二冊目「オーバーヒート」が7月9日に刊行されたばかりだ。この「オーバーヒート」についても機会があったら書いてみたい。(もう、読んだけどね、おもしろおかしいんだから。)

千葉さんは、上記の「ツイッター哲学:別のしかたで」の冒頭の「はじめに」において、自分が文章を書くプロとして生きてゆく過程はツイッターとともにありましたと、書かれている。千葉さんの文章の肝の部分がこの本に示されているとも言える。文の書き手としての千葉雅也さんの核を掴まえるにはこの本が適切なのかもしれない。(この本は2014年に最初のバージョンが刊行され、その後増補版が2020年の11月に刊行された。収録されたツイートは2009年から2014年のものにプラス2019年までのものが加えられた。)

千葉さんのツイッターに対する思いが書かれた美しい言葉をここに引用したいと思う。断片性がデジタル・スペースの中で生成変化の流れに浮遊するブイのように漂っている。ツイッターとは、流れの中を点滅する動きと停止であり、逡巡と飛躍の泳法であり、舞踏家が空間に刻むステップなのである。

「ものごとの輪郭が、仮固定される。仮固定から仮固定へと移りゆく。ツイッターには、何かを仮にやってみる様子、何か新しい課題に直面し、別のしかたで思考や感覚を摑もうとする様子が間歇的に流れてゆきます。工事現場やアトリエの一角が明滅している。ツイッターとは、生成変化の中間において仮固定された思索がとびとびに並ぶ、非連続性のメディアなのです。」(「はじめに」の10ページより引用)

千葉雅也って誰? と言う方は、これを見て欲しい。千葉さんのツイッター

私は、千葉雅也さんは現在の日本において最も「高度な散文」の書き手のひとりだと思う。描写の巧みな小説家や物語が達者な小説家は存在しているのかもしれない。しかし、高度な散文の書き手は本当に少ない。ここで言う「高度な散文」というのは、難しい言い方になってしまうが「事象を高次元多様体として記述する言葉(文章)」ということになる。ここで私が言う「高次元多様体」とは数学の用語ではなく、複数の次元を持つ空間的存在であり、構造と機構を持つ機械的存在という意味合いである。事象が多面性、多義性を持つ根拠としての高次元多様体。(本来は数学的な定義が成された数学の用語であるが、ここでは、上記のような意味合いの言葉として用いることにする。残念ながら他に適切な言葉が存在しない。何かいい言葉がないかな?)

この世界で起きている事象は全てが高次元多様体なのだが、それをさらりといとも簡単に行える人は現在の日本にはそれほどいない、と私は思う。物事には多面性、多義性が存在するという基本的事柄が根源的に破壊されている。物事は本質的にデータという呼び名の平面上に存在しているというデジタル・スぺース時代の錯覚。錯覚なんだけど、もはや、信仰なのではないかと恐ろしくなるほど現在の世界は事象を平面化してしまっている。暴力的に。上か下か、右か左か。縦か横か。前か後か。奥行きの欠落したフラット・ワールド。全てがフラット・ディスプレイの中の出来事のように平面化されてしまう。

まるで、それは松浦寿輝さんの「人外」に登場する平面の街にように。(松浦さんは大学生時代の千葉さんの恩師である。また、表現者として千葉さんに様々な影響を与えたとされている、かな(?))

ちなみに、「ツイッター哲学 別のしかたで」の中にも「散文とは」という一節がある。これもまた美しくカッコいいでの引用したいと思う。

散文はエロい。韻文にもそれなりのエロさがあるがそれを凌駕するものが散文にはある。なぜか。予想外のジグザグをたどり、期待を裏切るものであるからだ。韻文は期待の地平にある。どんなに変な言葉づかいをしても、変な言葉が共存する地平がある。散文は真の冒険だ。おそらく。(141ページより引用)

抽象的な話をするよりも具体的な事例を示して、説明したいと思う。千葉さんのツイッターから幾つかその「高度な散文」を引用したいと思う。以下に引用するツイッターは私が作成した「私家版 2020~2021版 ツイッター哲学 別のしかたで 3」より引用したいと思う。(尚、幾つかのツイートを結合させた部分もあります。)

(1)志村けん死す、幼稚で猥雑な欲動が結晶化するヒステリー的身体

引用の1は、昨年、志村けんさんが亡くなられた時に発信されたものだが、志村けんさんをこれほど明確に簡潔に記述した文章はない。(と思う)。

(その1)「志村けんとは倒錯者(変なおじさん、バカ殿など)をぎりぎり笑える度合いでパフォームする芸人だった。爆発してしまいそうな幼稚で猥雑な欲動が、ある硬直したポーズに結晶化するのが志村のヒステリー的身体だった。(志村けんさんの訃報に対して。2020年3月31日)」

(2)「女性の生理と男性のマスターベーションには似たところがある」、批評の散文が「ジグザグをたどり、冒険する」

引用の2は、女性の生理と男性のマスターベーションを似たところがあるとして物議を醸した文章であるが、「高度な散文」の見本。事象(女性の生理も、男性のマスターベーションも)が高次元多様体であるということが認識のデフォルトになっていない人にはこの文章を読むことはできない。事象を平面上の中でしか捉えることができない人は、女性の生理と男性のマスターベーションの関係性に相反性と同方向性の相反する両方が矛盾することなく存在していることが理解できないだろう。快・不快の地平にその二つの事象を投影すればそのベクトルは真逆に相反し、能動性・受動性の地平に二つの事象を投影すれば、その二つのベクトルは同一方向を示している。事象が高次元多様体であることからすれば、そうしたことは何一つ矛盾することではない。「物議を醸す」、、、???、ふう~う。どうなってんのかな? これはジェンダー問題ではなく、事象の次元性の問題だ。

見解の相違でもなく、立場の相違でもなく、事象の高次元多様体性を理解することができれば、多くの物事が対立から回避できると私は思う(夢!?)

(その2)「性に関わる自然的な「そうならざるをえない」が定期的に訪れるという意味では、女性の生理と男性のマスターベーションには似たところがある。十分知られていないかもしれないが、男性はマスターベーションをしてもしなくてもいいのではなく、切迫が生じるので、する必要がある。(2021年1月21日)」
「男性の射精はできるときにする、しなければしないでいいのだろうという認識は、男性を「能動性、自由意志のジェンダー」だと前提する誤りと結びついている。男性には射精切迫に振り回される受動的面が多分にあり、マスターベーションを必要性で捉える方が、ジェンダー対等的な見方だと思う。(2021年1月21日)

(3)思考と欲望に関する抽象的分析的な思考が呪術化する

引用の3は言葉がある種の兵器として機能することを説明した文章。目新しい話ではないかもしれないが、これは、所謂、特殊詐欺がもはや詐欺というレベルの話ではなく、兵器化された言語が殺戮を行っていることを意味しているということを、言い表した文章だと思う。言葉の持つ暴力性が精神的なものであることを超え、物理的な力を持つことを示した文章。(テレビではこんな言葉は聴くことはできない。)

(その3)「文系は役に立たないとか大嘘。思考と欲望に関する抽象的分析的な思考を鍛えると同時に、色々遊んで自分を危険にさらすのもいとわず人間関係を実験して、それと文系的考察を絡めていくと、決定的に人に介入する技術が醸成される。哲学や精神分析理論を学び、自分の変化、健康管理を通してそれらの言葉を吟味してきた経験から言って、それらを悪用して人の心理に介入する呪術みたいなことはある程度可能だと思う。その毒を薄めると営業トークになる。新しい宗教の設計もできるだろう。言葉は使いようで危険な力を持つ。(2020年9月14日)」

(4)現代思想の研究者、魔法使いになる

引用4この言葉は、引用3の言葉と連動しているのだが、「魔法使いとしての現代思想家」「魔法としての現代思想」。言葉の魔法性という古くて新しい話。昔からある話じゃないか、だって。そんな風に知ったかぶりしているから、21世紀のアドルフ・ヒトラーが魔法使いとして復活しても誰一人として対抗することができないんだよ。ヴォルデモートは私たちのすぐそばにいる。

(その4)言語で食っていく人になった。それは、中二病で思っていた魔法使いになりたいという夢が、本当に実現したということだ。次の人生では戦士になりたい。
多くの人がそこまでは言わないということを言うと、それは呪文になる。
何かを引き起こしてしまう言葉というのがあり、普通はそれを言わないようにする、というか、そのかなり手前で発話が展開する。これを言うと引き起こせるな、ということを時々意図的に言うか言わないか。魔法の倫理。
人間の主体性はそのかなりの部分が言語による物語的構築に依拠している——というのが魔法原論。
だから言葉によって人間に対し本質的な働きかけを行うことができる。魔法としての現代思想、という本書けるな。(2020年9月6日)

なんだか、気が付いたら、たくさん引用してしまった。もっと素晴らしい美しいカッコいいツイートが存在していて、その多くを紹介したいんだけど、終わりがなくなってしまう。のでこのへんで。おしまい。

(5)裏切者たちの挽歌、「散文とは要するに荒野なのである。(2016-09-05 01:24)」

結局、散文とは、思考の身体性であり、そのほとばしる躍動性の残響でしかない。散文は飼いならされることが不可能な思考を言葉の網で掬い取いとろうとする・・・散文を散文でつかまえることなどできない・・・

韻文の酩酊と散文の覚醒、・・・、散文は終われない。













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