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会社員とは"まやかし"の中で生きること
安定、福利厚生、年間休日120日、都内1等地のオフィス
会社の看板で自己を確立し、家族、ローンで自分を説得する
今日もホームから溢れんばかりの人、人、人
舌打ちと詰まった改札 覇気のない挨拶
どうして俺は今ここにいるのか
無機質な蛍光灯の光とグレーの壁、壁、壁
この会社という場所には
人間を人間たらしめる理由がひしめいている
経済合理性のない道徳 意味のない定例
業務という名の消費 全体最適
「若い頃より旅が面白くなくなる」ということに関する考察
8年ぶりに一人旅に出た。
場所は東南アジア諸国である。
特に目的はない。
強いて言うなら「意味や目的からの逃避」が目的である。
しかし皆はしきりに「目的は何なの?」と聞いてくる。
自分含め皆目的の奴隷である。
社会が出来て、生命維持のみでなく生きがいやその意味、目的を求めるようになった。
また資本主義がそれを促す。効率や実利を重んじれば評価され豊かな”生活”が手に入る。
そもそも人は、いや
能力の優れた人が劣った人を否定することなくどう活かしていくか?
以前から思考が鋭く面白いのでTwitterでフォローさせてもらっている
コンサルの安達裕哉氏の新書「頭が良い人が話す前に考えていること」
という本を読んでいる。
まだ途中なのだが気づいたことがあったのでメモしていく。
本書で以下のような項目があった。
これに関して思うことが最近あったので書いておこうと思う。
私は、日常的に知識や経験、また知能指数(ただの肌感)、自己理解度において私と差がある
Twitterのつまらなさについて
・・・なぜ私はここに文章を書くのか。
それは湧き上がってくるさまざまな感情の発露、またその連鎖を書き留めて人目にさらす場所としてここが適切だと感じたからだ。
私が忌み嫌っているTwitterではひとたび未熟なものが思考を垂れ流せば、有象無象が群がってくる地獄のような場所である。
彼らは決して黙らない。ただただ反応するだけである。
そのような輩がうごめく沼のような場所でまともに何かを考えて結
じぶんと社会との間に
気付けば1日の大半を内省して過ごしている。
表層的には社会とのかかわりはあれど、精神的には長らく隔絶された場所にいるような、どこにも所属していないような、そんな疎外感を感じながら生きてきた。
「じぶんじしん」でいるということをメインの価値観においてきたこの数年間は、結果的にじぶんじしんではないことを意味する外交的で軽快な性格を封じ込めることになった。それによって外界との隔絶が起きている。だがし
本質というたまねぎ -散文-
ここに本質という玉ねぎがある。 これを思索によって一枚一枚皮をはがして核心に迫るのが哲学だとすれば、禅は手を使わずに、また意識的に皮をはがそうとはせずに核心をぼんやりと透かして見るような試みだと思った。 そういう意味で禅と哲学はアプローチは対極(片方は頭を主に使い、もう片方は無意識による気づきを用いる)ではあるが、たどり着く先はそ
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