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インドはこの世の地獄だった

東南アジア数カ国を経てインドに降り立った。 今回私が旅したのはおもに北インド(コルカタ→ニューデリー)というバックパッカー御用達のルートである。 これを書いている今、私はバラナシにいる。 東南アジアで前回書いた記事↓の内容が、面白いことにここインドで 大きなブーメランとなって自分にぶっ刺さってきて興味深かったので 追記として本記事を書こうと思う。 本題に入る前に幾つか断っておきたいのが、 ・この記事はあくまで「私がどう感じたか」という1次情報の記録であり、またそれに価値

    • 会社員とは"まやかし"の中で生きること

      安定、福利厚生、年間休日120日、都内1等地のオフィス 会社の看板で自己を確立し、家族、ローンで自分を説得する 今日もホームから溢れんばかりの人、人、人 舌打ちと詰まった改札 覇気のない挨拶 どうして俺は今ここにいるのか 無機質な蛍光灯の光とグレーの壁、壁、壁 この会社という場所には 人間を人間たらしめる理由がひしめいている 経済合理性のない道徳 意味のない定例 業務という名の消費 全体最適という名の思考停止 過去の実績を振りかざし機嫌を取らせる上司 謝ったら死ぬらしい

      • さようなら

        人間は、永久機関ではない 人間は役割を全うするために生まれてきたわけではない 人間は、愛情を元にそれらの役割をこなすことができる 人間はそれを繰り返すことで永久機関になり得る 愛情の燃料無しで遠くまで走らせることはできない 自分を偽り役割だと言い聞かせても 自分をいたずらにいじめるだけだ 愛情を与えられないのなら役割を与えるべきではない それは搾取になるからだ 役割を全う出来ない人間は愛せないのなら いっしょにいるべきではない それは愛情ではないからだ ここま

        • 「若い頃より旅が面白くなくなる」ということに関する考察

          8年ぶりに一人旅に出た。 場所は東南アジア諸国である。 特に目的はない。 強いて言うなら「意味や目的からの逃避」が目的である。 しかし皆はしきりに「目的は何なの?」と聞いてくる。 自分含め皆目的の奴隷である。 社会が出来て、生命維持のみでなく生きがいやその意味、目的を求めるようになった。 また資本主義がそれを促す。効率や実利を重んじれば評価され豊かな”生活”が手に入る。 そもそも人は、いや動物は理解不能な事物を恐れるように出来ている。 そして恐れとは生命維持の本能であ

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        インドはこの世の地獄だった

          旅立ち前の手記

          これほど恐ろしいものだっただろうか? これまでに何度となく一人旅をしてきたつもりだが、 30代も半ばになろうという今、旅立ちを前にして私は震えている。 何だこの不安感は。 まるで今から死ににでも行くかのような、 心臓あたりで不安のジェラートがゆるりと溶けていくような感覚。 命が惜しくなったのか? 守るもの、帰る場所ができたせいだろうか。 今思えば、今までの一人旅もある種 ”ポジティブな色を帯びた自害”のような趣があった。 どうしようもない、いかんともしがたい状況、そ

          旅立ち前の手記

          能力の優れた人が劣った人を否定することなくどう活かしていくか?

          以前から思考が鋭く面白いのでTwitterでフォローさせてもらっている コンサルの安達裕哉氏の新書「頭が良い人が話す前に考えていること」 という本を読んでいる。 まだ途中なのだが気づいたことがあったのでメモしていく。 本書で以下のような項目があった。 これに関して思うことが最近あったので書いておこうと思う。 私は、日常的に知識や経験、また知能指数(ただの肌感)、自己理解度において私と差がある人たちとのコミュニケーションにおいて非常に苦労している。 こちらとしては画像や

          能力の優れた人が劣った人を否定することなくどう活かしていくか?

          God damn

          数年前に10年来の目的が叶ってから、予定調和の日々が続いている。 仕事は一応好きなことをやらせてもらってはいるが、スキルが付けど経験が増えど、「だから何だというのだ?」といった感覚がまとわりついて離れない。 評価はされる。 金も増える。 ただただ、シンプルにつまらない。 30代を過ぎて燃え尽きてしまったのだろうか。 心の琴線に触れるもの以外の、あらゆる憂鬱がびっしりと覆いつくした様なはっきりとしない白っちゃけた空が裂け目もなく続いている。 別に寒くも暑くもない、晴れで

          バカについて

          そんな折、ネットの記事か何かで以下のような本を見つけた。 フランス人哲学教授に学ぶ 知れば疲れないバカの上手なかわし方 正直あまり書店で手に取りたくない類の本ではあるが、軽い気持ちでamazonで注文して読んでみた。 まだ途中だが、いくつか有益な気づきがあったので記しておこうと思う。 まず前提として、 ■絶対的にバカの人間はいない 優秀なものも誰かにとってはバカであるということ。これは分かる。 ただし大多数の人間にとってバカだと思われているような、相対的にバカにされて

          バカについて

          産まれてくる子供について考えたこと

          妊婦検診でNIPTというダウン症をはじめとする障がいについてあらかじめ検査できるものがある。それについて夫婦で話した。 妻は「もう体の一部になってしまっているから正直なところ冷静な判断はできない」と言ったのを聞いて、それを自覚できているだけでも十分冷静だよ、と思ったのだった。 これで、優れた命を選別できる これで、生まれた後の苦労を軽減できる 選別をしたことで表面上は整った幸せそうな家族と、 障がいを持つ子どものいる家族。 前者は、子どもを自ら殺したというカルマを背負

          産まれてくる子供について考えたこと

          衛星

          少しばかり生きていると気づかないうちに 正しさやら 道徳やら 責任やら 世間体やら 役割やら が衛星のように身の回りを周り始め、次第に身動きが取れなくなっていく。 そうして最後には立派な負け犬として死んでいくのだ。 私は今それをありありと見た。 だから何だというのか。それらを疎ましいとは思っても、実際問題としてそれをすべて遠ざけることは難しい。動物として生きていく以外は。 だれだ、こんなものを広めたのは? だれだ、こんなものを信じているものは? すべて人間が始めて、

          夜のスポット

          こんな夜の隙間に目が覚めてさっき読んだ本が見せた浅い夢が私をPCに向かわせた。 「これは何かが違う」という根拠がないにしてはあまりにありありとした直感が迫ってくる。 どうやら私も父になることになるかもしれないことが最近分かった。 そしてさっき、場合によっては妻を失うこともあるかもしれないと、ふと、そしてこちらもありありとした現実感と質量を持って自分にのしかかった。 この直感が当たらないことを願うばかりだが、これは私に何を告げようとしているのか。 仮にそうだとしても、残

          夜のスポット

          「赤ん坊の悪魔」

          マトモな頭で考えたいかにも合理的なライフプランは 当たり前だが非常につまらない 今まで積み上げたものの延長線上でしかもの見れない奴ら 生活のためにすべてに目をつむる奴ら そんな環境にいたらこっちまで感覚が鈍ってくる いくら金払いがよくてもさっさとおさらばしたい場所 新しく始めるとき何を犠牲にするのか? 国を出るか否か? 何を生業にするのか? おそらくそのいずれか、またはすべてはどうでもよいことだ。 だが自分が「おもしろい」と思えないことでどうやって幸せになれるだろう?

          「赤ん坊の悪魔」

          Twitterのつまらなさについて

          ・・・なぜ私はここに文章を書くのか。 それは湧き上がってくるさまざまな感情の発露、またその連鎖を書き留めて人目にさらす場所としてここが適切だと感じたからだ。 私が忌み嫌っているTwitterではひとたび未熟なものが思考を垂れ流せば、有象無象が群がってくる地獄のような場所である。 彼らは決して黙らない。ただただ反応するだけである。 そのような輩がうごめく沼のような場所でまともに何かを考えて結論付けたり、交流することは難しいと感じる。 140字ではある程度まとまった考え

          Twitterのつまらなさについて

          沈殿物

          夜中に酒を飲む。 いろいろな考え事がぐるぐるとめぐり、小さな星屑のような気付きや グラスの底に沈殿していた澱のような出来事が舞い上がり思い出される。 果たして私は酒に酔って/依って頭が冴えているのか、鈍っているのか。 心がぱちぱちとスパークする。(both in a good way and a bad way.) とにかくそれが自分にとって正しいかどうかはその感覚の有無でわかる。 そういった経験を積み重ねるのだ。 そういった瞬間のための日々の積み重ねならば時間と労力を

          沈殿物

          じぶんと社会との間に

          気付けば1日の大半を内省して過ごしている。 表層的には社会とのかかわりはあれど、精神的には長らく隔絶された場所にいるような、どこにも所属していないような、そんな疎外感を感じながら生きてきた。 「じぶんじしん」でいるということをメインの価値観においてきたこの数年間は、結果的にじぶんじしんではないことを意味する外交的で軽快な性格を封じ込めることになった。それによって外界との隔絶が起きている。だがしかし自分を偽ることは価値観に反するのでそのループから出ることはできず、ぎこちない

          じぶんと社会との間に

          本質というたまねぎ -散文-

          ここに本質という玉ねぎがある。                   これを思索によって一枚一枚皮をはがして核心に迫るのが哲学だとすれば、禅は手を使わずに、また意識的に皮をはがそうとはせずに核心をぼんやりと透かして見るような試みだと思った。                 そういう意味で禅と哲学はアプローチは対極(片方は頭を主に使い、もう片方は無意識による気づきを用いる)ではあるが、たどり着く先はそれほど違わないのではないか。 頭の中では野良犬が見栄や承認欲求という骨を加えて

          本質というたまねぎ -散文-