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Twitterのつまらなさについて
・・・なぜ私はここに文章を書くのか。
それは湧き上がってくるさまざまな感情の発露、またその連鎖を書き留めて人目にさらす場所としてここが適切だと感じたからだ。
私が忌み嫌っているTwitterではひとたび未熟なものが思考を垂れ流せば、有象無象が群がってくる地獄のような場所である。
彼らは決して黙らない。ただただ反応するだけである。
そのような輩がうごめく沼のような場所でまともに何かを考えて結論付けたり、交流することは難しいと感じる。
140字ではある程度まとまった考えを展開することは難しく、また省かれた行間をまた各々の持てる読解力と感性を駆使して誤解し罵りあうのが関の山である。
ここでは何が起きているのか?
考えることを放棄した人々が、今日1日で自家発電できなかった自尊心や満足感を穴埋めしようと、「他社を引きずり下ろすという形で」互いに交流しているのである。
タイムラインに流れてくるのは今日も綺麗な絵ばかりである。
それは「成果こそ正しさ」というような成果の罠にユーザーを嵌めようとしているかのようだ。
これにより、無意識化で「あらゆる行為は上達及び成果を得ることが主目的である」という行為の手段化を進めてしまうことになる。
手段やスキルが独り歩きしてできたような作品が大量にサジェストされる。
私はそれらに技量以外の何も感じない。
そういった表面上で起きていることを素直に受け取っているような人があまりに多く、私は交流する気が起きない。
それよりは豊かな内的世界を持つ人間の鋭い感性に惹かれる。
それらは自分でものを考えるという事を積み重ねたものしか得られないものだと私は考えている。
そして私自身がそうだとも思っていない。
どちらかというと前者の愚鈍な凡人である。
その私にも忌み嫌われるような人種をどう呼称してよいかは今のところ不明である。
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