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「若い頃より旅が面白くなくなる」ということに関する考察

8年ぶりに一人旅に出た。
場所は東南アジア諸国である。

特に目的はない。
強いて言うなら「意味や目的からの逃避」が目的である。

しかし皆はしきりに「目的は何なの?」と聞いてくる。

自分含め皆目的の奴隷である。
社会が出来て、生命維持のみでなく生きがいやその意味、目的を求めるようになった。
また資本主義がそれを促す。効率や実利を重んじれば評価され豊かな”生活”が手に入る。

そもそも人は、いや動物は理解不能な事物を恐れるように出来ている。
そして恐れとは生命維持の本能であり、
それらが正常に働いているというだけのことである。

理解の範疇を超えたもの、どうラベルを貼ってよいか分からないもの。
それを常人は「そのままにしておく」事ができない。
そのラベル抜きにして、観測の対象を処理することが出来ない。というより
「理解しよう」と意志すること自体が、
本当の観照から遠ざかる一番の原因である。

彼らが意味や目的から離れた所にも重要なものがあることに気付ける日は
来るだろうか。
いや、気づいていながらも見て見ぬふりをしているだけなのかも知れないが。

1つ目の国で私は自分自身に心底辟易した。
まず1人旅自体が8年ぶりということで、旅の仕方がほぼわからなくなっていたこと。
空港についてからタクシーの客引きに”No”を言いながら4周ほど携帯を見ながら
ぐるぐると歩いた。旅行者レベル1の行為である。

そして1カ国目から2カ国目に移ろうという時、あることに気づいた。

「私は旅人ではなく、日本にいるときと何ら変わらない単なる利口な消費者でしかない」ということに。

損をしないように、効率よく旅を進められるように、
情報を駆使して正解を参照し、セオリー通りの旅をしていた。
そうして街を通り過ぎた私の目の前には世界は無く、
ただ単に消費の対象としての人やモノが存在していただけだった。

「私はわざわざ外国まで来て、こんなことをしに来たのか?」

目的こそなかったが、直感的にそう思った。

これはかなり酷い偏見だが、
欧米諸国の旅行者も同じ様な旅の仕方をしているように見受けられた。
それは、人種の違いによって
アジア人は「そもそも理解できない相手である」という
認識がそうさせているのか、はっきりとした理由はわからない。
(そもそも欧米人がただ消費をしている、という前提が合っているかもわからない)

が、彼らの目の前に同じ世界線の人がいる、
という風に振る舞っているようには私にはとても感じられなかった。
そして私も同じ様な旅の仕方をしていることに気がついて、
嫌気が差したのだ。
(消費自体を否定はしない。基本的には旅は消費であり、逃避である)

そう感じている時一体何が起きているのだろうか?

意味と目的の話に戻ろう。
意味と目的は実生活で非常に役に立つが、それはつまるところ、
意志することで
「結果を知識や経験によってコントロールしようとする」
ことであり、
そしてそれなりの大人であれば、多くの場合それに成功する。

例えば、「バンコクへ訪れたら絶対見るべき場所5選」
のような情報を参照して各地のランドマークと名産品を
ひたすら巡る旅のような、すべての行動に意味付けと目的を用意し、
無意味が立ち昇ってくるスキがないような状況である。

結果、予定通り事が運び、無駄な時間や金を消費せずに済むが、
すべては予定調和であり、またそれを行っている間は思考が優位となり、
直観は息をひそめる。

旅のみではなく物事には「流れ」というものがある。
例えばギャンブルで勝てる流れのときはとことん勝つし、
なにか面白いことが起きる時はとことん起きる。
そして、その「流れ」を思考が妨げる。
「流れ」は直観でしか掴み得ない。
まったく同じことを行っていても、「面白いことを起こしてやろう」
という意志、すなわち思考が働いた瞬間、流れは見えなくなる、
もしくは流れは消えて無くなる。

ではどうすればよいのか?

歳を重ねるのに従って、人は賢くなる。
…というよりは、知識や経験から色々なことが想定できるようになるといったほうが正確かもしれない。
それは間違いなく、メリットであることのほうが多いだろう。
しかしながら、今回考察している”旅”という場面において、
それらは大きなデメリットとなりうる。

理由は先程述べたとおり「流れ」を見失うからだ。
今さらすべてを忘れて若者のように、いい意味でバカになることは難しい。
しかし少なくとも
「知識や経験、情報によってすべてをコントロールしようとする」ことを
辞めることはできるのではないか?

それは、不利益を被るリスクを取るということであり、
「何か」が起こるための遊びを持たせるという事でもある。

すべてはバランスの問題である。

思考だけで進んでも、すべては予定調和になりつまらない。
直観だけで進めば運否天賦のリスキーな旅になる。
では、基本的なプランや大まかな情報、致命的な部分(フライトや帰国日など主に移動面や命に関わるようなこと)は押さえた上で、その他枝葉の部分(毎食何を食べるか、居合わせた人と過ごしてみるなど)はある程度流れに任せるのが良い、というのが今回の結論である。

…この旅で数人の日本人と出会った。
旅に出た理由も様々だが、彼らは口を揃えて
「若い頃のように旅が楽しめなくなった」と言った。
そして私もまたそれを1カ国目で感じていたのだった。
考察できる理由の一つとして、今まで述べた思考優位の旅が
原因の一つであると考える。

その他の理由として、「自分が変わった」ということが考えられる。

世界は自分という鏡に映った像である。
それを前提とするならば、
旅が面白くない=世界が面白くない=自分が面白くない
という式が成り立つ。

つまりどういうことかというと、
知識や経験のない若い頃はすべてのものが新鮮で、予測不可能だ。
結果それは彼らの好奇心を刺激し、魂をころころと踊らせる。
それはオーラや表情に現れ、そしてそれに呼応した世界が色めき立つのだ。

歳を重ねて多くのことが予測可能になった今、
魂が踊るようなことは起こりづらい。
そして世界もそれに呼応した結果、楽しいことは起こりづらくなる。

だから、「何か」が起きる余地を残すのだ。

面白い旅=予測不可能な何かを内包した旅にしたいのであれば、
歳を取った今、なおさら理性的に振る舞いすぎることに気をつけるべきだ。
そういった遊びはきっと何か予測不可能なものを
あなたの旅に添えてくれるだろう。

ひとまずこのテーマで書きたいことは概ね書けたので
今回はこんなところで考察を終えたいと思う。

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