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旅立ち前の手記

これほど恐ろしいものだっただろうか?
これまでに何度となく一人旅をしてきたつもりだが、
30代も半ばになろうという今、旅立ちを前にして私は震えている。

何だこの不安感は。

まるで今から死ににでも行くかのような、
心臓あたりで不安のジェラートがゆるりと溶けていくような感覚。

命が惜しくなったのか?

守るもの、帰る場所ができたせいだろうか。

今思えば、今までの一人旅もある種
”ポジティブな色を帯びた自害”のような趣があった。
どうしようもない、いかんともしがたい状況、それを打破できず
このまま腐るくらいなら、、、と飛び出すことが多かったように思う。
その時期の手記も残っていないのであいまいな記憶だが、おそらくそうだ。

「では何をしに行くのか?」

「どこへ向かおうというのか?」


世の中の当然ともいえる疑問が幾度となく私を打つが、
すでにそれらのつぶてで痣だらけとなった私の体は
それを意に介さず、少しづつぬかるみの中歩みを進めるのだった。

”理解”しようというのである。この私を。

正気か?

ただ安心したいのだ。
彼らの矮小で平凡な理解の窓から見える範囲に私をとらえておきたい。
そのための行為が問となって現れる。
私は死角から物音だけを聞かせてやる。せいぜい想像するがいい。

さて、彼らをまともに相手をしている間、わたしの時間は虚無であった。
これ以上何も生み出さない(生み出さなくて結構なのだが)
ことに時間を費やしたくはない。ことさら彼らのためには。

旅はいつでも”逃避”である
日常や仕事、また彼らの退屈な問いからの

さも主体的に「何かを見つける」ようなことを言う人もいるが、
基本的には逃避でしかない。そしてそれでよい。

逃避が悪と考える人間は大したことはない。
裏を返せば「現実と向き合わなくなった私は無価値です」と
自認しているようなものだからだ。自身に価値を認めている人間は、
たとえ逃避のさなかにいてもそれを是とする。

敵は己のみである。
これは何もマッチョな思想だけではなく、
「そもそも分かり合えない相手」が世の中には溢れており、
彼らを”敵”として対処したところで、彼らは倒れないからだ。
それはまるで幽霊相手にこん棒で殴り掛かるようなものだ。
故にそういった相手は”無敵”なので、正しくは”敵”になりえない。

よって己が一番の敵である。

では、行ってくる。

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