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じぶんと社会との間に

気付けば1日の大半を内省して過ごしている。

表層的には社会とのかかわりはあれど、精神的には長らく隔絶された場所にいるような、どこにも所属していないような、そんな疎外感を感じながら生きてきた。

「じぶんじしん」でいるということをメインの価値観においてきたこの数年間は、結果的にじぶんじしんではないことを意味する外交的で軽快な性格を封じ込めることになった。それによって外界との隔絶が起きている。だがしかし自分を偽ることは価値観に反するのでそのループから出ることはできず、ぎこちない人間関係を甘んじて受け入れてきた。当然何の発展性もない。自分から何も話さないのだから不気味な存在と思われて当然だろう。

コロナ渦になってから居酒屋で飲めなくなって久しいが、今日は道徳に中指を立てて外で酒を飲んだ。「ああ、いつもほろ酔いくらいの気分だったらどれだけ生きやすいだろうか」と思った。頭からの指令が軒並み鈍化し、より心=体に主導権が移った状態。そこにはしらふでいるときの緩やかだが確かな怒りや、他人に対する見下しの気持ちはほとんどない、ニュートラルな気分だ。アルコールやドラッグに頼らずに常にこの境地に至ることができたら。どれだけ平穏な精神だろうか。

だがここで一つ疑問を投げたい。

感情に優劣はあるのだろうか?

世間ではしきりにポジティブ信仰がもてはやされて久しいが、そもそも人間の反応そのものを特定の方向にゆがめることが果たして人間の本来のあるべき姿なのだろうか。

私はそうとではないと思う。座禅を通して感じたのは「こうあるべき・これはだめ」という2元論的な発想は何の解決にもならないということだ。

例えば「座禅を通して、心を落ち着ける」というステレオタイプ的な発想だ。座禅を通してなぜ全員が心を落ち着けなくてはならないのか。見えたものが怒りの発露かもしれない、もっとわがままに生きることかもしれない。人それぞれ持つ魂が違うように、それを生かす方法も千差万別であり、それが必ずしも世の役に立つことだとは限らない。この考えを否定するということ、は本質を見落としている。それは結局、この時代の道徳や常識の奴隷となった人々が信じている、道徳や常識といったいわば一つの宗教の教えに過ぎないからだ。

変化について

変化を好む人とそうでない人がいる。私は割と変化を好むほうだ。先が見えてしまったとたん、やる気をなくしてしまう。まるで一定の年数とルーティーンが与えられた懲役刑のように感じてしまうからだ。それに関連しているかはわからないが、私は移動そのものが好きだ。景色がどんどん変わっていくのは気分がいいし、感情を刺激してくれる。私は同じことをひたすら繰り返すことはできない。なぜなら我々の魂は理性とリンクしているわけではなく、それとは関係のない次元で、その時々で自由に揺れ動く性質のものだからだ。反復とはそういう性質と相反する生き方である。

タイミングについて

人生にはタイミングというものがあるというのはだれしも聞いたことはあるだろうが、自身の人生を通して実感している人はどれくらいいるだろう。

私はこれまでの人生の節々で、「これは何か人知を超えた大きなうねりの中に巻き込まれている」というような感覚にさらされることがしばしばある。それはふと手に取った本の中の1文だったり、何の気なく見た映画の中のメインテーマだったりする。そういう時に私がとってきた行動は「流れに身を任せること」である。そこまで材料がそろってしまったらしょうがない、エイヤーと飛び込むのである。これができるかできないかで人勢の飛距離は大きく変わると思う。断っておくがこれは人生そのものの優劣ではない。「何を選択したか」の差でしかない。例えば会社で働くこと、都市に住むこと、田舎に住むこと、独身でいること、などなど様々なテーマで「違和感」や「納得感がない」という感じを胸に抱きながらも、理性的な判断を優先して生きている人は多い。こうしたうねりを感じることができる人はまずそれ自体が才能である。世の中には何も感じず、それぞれのドラマを演じたり存在しているだけの人間も多くいるからだ。その才能によって得た感覚をもとにどういう選択をするかもまた資質によるところが大きいと思う。こちらは過去の経験によっていくらでも鍛えることが可能であると思われる。

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