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本質というたまねぎ -散文-

ここに本質という玉ねぎがある。                   これを思索によって一枚一枚皮をはがして核心に迫るのが哲学だとすれば、禅は手を使わずに、また意識的に皮をはがそうとはせずに核心をぼんやりと透かして見るような試みだと思った。                 そういう意味で禅と哲学はアプローチは対極(片方は頭を主に使い、もう片方は無意識による気づきを用いる)ではあるが、たどり着く先はそれほど違わないのではないか。

頭の中では野良犬が見栄や承認欲求という骨を加えて離さない。座禅をすることによってそれを手放させようと「無意識的に」するが、なかなかうまくいかない。どうやらこういった欲望は思っているよりも本能に近い部分から発せられているのかもしれない。

その思考の海の深さの差こそあれど、このような様々な考え事におぼれているのが人間の常である。それを意識的に、また無意識的にいなして受け流すことにより「じぶんじしん」に出会い、彼が語る言葉を一言二言すくい上げる。

それらの言葉とは対比的なのが「人による・場合による」とか、「他人には期待しすぎないほうがいい」とか「そのうち、まあ」という言葉である。 それらは結局何も言ってはいないし、そりゃそうだよねとしか言えないし、本質を避けよう・先延ばしにしようという雰囲気を感じるからだ。

全人類に向けられた一律の答えのような言葉なんて、「なんでも治る薬」くらい胡散臭い。それは私やあなたに向けて調薬されたものではないし、多少気分がよくなる対処療法でしかないので、今後何度も同じ症状に苦しむことになるだろう。

多くの人間は自身の基準で世界を見ている。              自身が外部からの期待に応えているという自負があればあるほど、それが他者への期待となり、期待に応えられなかった場合へ憤りへと変わる。   ここでは「他人には期待しないほうがいい」というアドバイスは何の意味もなさない。風邪を引きやすい人に対して、「風邪を引かないようにしたほうがいい」と言っているようなものだ。黙れと言いたくなる。この場合、根本は「自身の基準で世界を見ていること」であり「自身が外部からの期待に応えている、またはそう自負している」ということにある。

それでは「自身の基準で世界を見ていること」を踏まえて、他者もまた「彼らの基準で世界を見ている」とも考えられる。それらを織り込んでいれば多少は他者に対する期待感も下がるだろう。                 また、「自身が外部からの期待に応えている、またはそう自負している」ことが問題を引き起こしているのであれば、外部からの期待を意識的に裏切ってみてはどうか。そうすることによって仮に前述の「自身の基準で世界を見ていること」に手を付けなくとも、自身の基準を下げることになるので他者へ期待することもなくなるだろう。もちろん、この試みによって純粋に外部から自身に対する信用が落ちる可能性は大いにあるのだが、そのデメリットと他者への期待と現実のギャップによるダメージを一度天秤にかけてみてもいいかもしれない。


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