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【哲学】 人生とは、『暇つぶし』ではなく『失っていたものを取り返しに行く物語』である


今回の記事は、以前『俺の聖書』シリーズにて書いたこちらの文章が基になっています。

結論は一緒なのですが、気になれば是非覗いてみてください。

最後にもう一度同じリンクを貼っておきます。




人生は暇つぶし?


「人生とは何か?」という哲学的問いは、人類が永遠に答えを求め続けている疑問だと思います。

 よく言われますよね。

「人生暇潰し」「好きなことをやれ」——と。


 あなたはそれで納得しますか?

 私は、それでは納得しません。
 暇つぶしにしては生きていくのが大変すぎます。

 ただぼーっと与えられた時間を無目的に消費して楽しんでいくにはやらなければいけないことが多すぎますし、嫌な思いもたくさんします。

 人生が単なる暇つぶしだなんて、私は納得できない。

 大前提、物事を悲観的に捉えることは何も生みだしません。だから、「生きていくのが大変」とか、「人生辛い」とか嘆いたって、しょうがないです。

 文句だけ言って何もしないのはダサいと思います。

 でも、悲観的に捉えるんじゃなくて、客観的事実を曇りのない目で見ても、「生きていく」って、とてつもない困難や挫折や失敗の連続だと思うんです。

 自殺者や、うつ病や双極性障害等の精神疾患の罹患患者の問題が深刻化しているなんて、普通に考えて健全ではないじゃないですか。

(日本における自殺者は減少してきていますが、『こころの時代』と言われるように、精神疾患系の問題は深刻化していく一方です)


 私は人生が単なる暇つぶしだなんて到底思えません。

『「人生暇つぶし」と考えて前向きに生きていくこと』は大切だと思いますが、それだけでは長い人生を強く生きていけない。

 単なる言葉の揚げ足取りみたいになってしまっていますが、私もここでいう「人生暇つぶし」がどういう意味なのかは理解しています。

「困難も含めて楽しめよ」

そういう意味なのだと思います。

ただ、『人生暇つぶし』と、それだけ言われても、あんまりしっくりこない。

 じゃあ、人生って何なんだろう?
 人生って、何て表現したらいいんだろう?

あなたはどう思いますか?


人生とは何なのか


 もったいぶらずに結論から言うと、私は

 人生とは、『暇つぶし』ではなく『失っていたものを取り返しに行く物語』

だと思います。

 人生のあらゆる場面で感じる欠乏や喪失、痛みを乗り越えて、無くしていたものや本当に欲しかったものを自分の一生をかけて取りに行く、取り返しに行くのが人生だと思うんです。

 その人が抱えている一番黒い部分と向き合い続けるのが人生、とも言えるかもしれません。

 どういうことなのか少しずつ説明しますね。
(少し長くなりそうですが、時間があるときに読んでください)



 母の幼少期 —『お金』と『孤独』—


 私の母は、幼少期に凄く貧乏な家庭で孤独を感じて生きてきました。

 父(私から見ると祖父)が糖尿病を罹って働けなくなり、母を含めた三姉妹を養うために、祖母が一日中働きに出ているような家庭環境で母は育ったんです。

 加えて、祖父は途中からおかしくなってしまったらしく、空中に向かって誰かと喋っていたり、お酒飲んで暴れだしたりしていたそうです。

(祖父はもともと霊感が強い人だったようです)

 祖父は母たち娘三姉妹には凄く優しく、決して手を荒げたりしなかったようなので、母は今でも祖父のことが大好きなようですが、幼い三姉妹がすくすくと育つにはいろいろと大変なことが多い複雑な家庭環境だったようなんです。

 貧乏で孤独な生活を、母はずっと送っていたんです。

 そこで、たくさんの苦悩に悩まされ耐えられなくなった母は一時期不良の道を進むようになりました。辛い環境から逃げるための逃げ道が、そういう不良の道だったのだと思います。

 ただ、そこから再起して自分が決めた道で技術を身に着け、働いていた店で経営を任されたり売り上げのトップを飾っていたりしていました。

 そこから私の父と出会って結婚して、私と妹が生まれました。

 貧乏と孤独の壁を越え、父と結婚し、暖かな家庭を築き、幸せの絶頂へと母はたどり着きました。

 そして、第一子である私が生まれたとき、母は「この子には絶対に寂しい思いやひもじい思いはさせない」と誓ったそうです。

「お金」と「孤独」——これらのテーマが、母にとって一番大きく向き合ってきたものでした。


 繰り返し立ちふさがる壁


 しかし、結婚して子供が生まれて順調だった母の生活はあるとき崩れ去ることになりました。

 父親が実は多額の借金を抱えていて、それが明らかになったんです。

 4億円の借金を父がしていて、母親がそれを一部ひっ被る形で9歳の時に両親が離婚しました。それに、妹も難聴を抱えていて、社会的にハンディキャップがある状態でした。

(全部詳しく説明していくと大変なことになる上に、ここら辺は本編の内容の説明に必要不可欠なものではないので割愛します)

 どれだけ母は辛い思いを重ねなければならないのでしょうか。ここでもまた、「お金」と「孤独」という壁が母の前に立ちはだかりました。

 もうやめてあげなよ、と誰もが思うと思います。
 でも、運命って、容赦ないですよね。



世界中どこへ逃げたって立ちはだかる『自分の人生におけるテーマ』


 何らかしらのテーマが、私達の目の前には表面的な姿かたちを変えて現れ続けるのが人生なんだと私は思います。

 母で言うと、『お金』や『孤独』だったり、私で言うと『強さ』や『愛情』だったりします。


 私についての話までしてしまうと、冗長になってしまうのでここでは控えます。その代わり、どうして『強さ』や『愛情』が私の人生の中で繰り返し向き合うべきテーマになったのかは、冒頭で紹介した記事と以下の記事を見れば、理解することが出来ると思いますので、もし時間があればこれらの記事まで読んでみてください。


自分の奥深くと向き合うこと



 辛く苦しく、途方もなく長い作業

 ただ、『自分の人生で向き合うべきテーマ』なんて、簡単に見つかりません。そして、こういったテーマは須らくそんなにお綺麗なものではありません。

 人は自分が持っているものや自身の行動の動機を美しく綺麗にお利口さんな意見に聞こえるように飾り付けることが出来ますが、実際は暗かったりドロドロしていたりすることがほとんどです。

 ですから、自分の中枢奥深くにいる本当の自分と向き合うことは、結構苦痛と言うか、痛みを伴います。

 それに、本音って意外とダサかったりするんで。
 ダサい自分や思い出したくない過去と向き合わなくてはいけません。


 例えば、

 さんざん御託並べて壮大な夢を語っているけれど、結局は「人に褒めて欲しいだけ」とか。

 人助け、人助けといっていろんな人を救おうとしているけれど、実際孤独感が大きくて、救ってほしいのは自分の方だったとか。

 人に思いやりを、とか言っているけれど自分が愛に飢えているだけだとか。

 立派な演説が出来たり、人に気配りが出来たりするのは、小さい頃に大人っぽいことを言ったり『お利口さん』にしていると親や周りの大人に褒められたからだとか。(これは僕ですね)


嫌じゃないですか。
こういう本音を認めるのって。
ダサいじゃないですか。


 人って大人になっていく過程で『自分の本音を隠して仮面をかぶって美しく生きていく術』を嫌と言うほどたくさんの経験を通して習得していくので。

 でも、ちゃんと自分が納得がいく人生を送りたいのであれば、この醜かったりダサかったりする『本音』の部分と向き合わなくちゃいけない。



 作家として生きていくこと

 先程も言いましたように、自身の本音の部分と向き合うことは、痛みを伴います。腹を切って内臓を取り出していくような作業なんですよ。これって。

 僕は作家として活動しているのですが、僕がやっている文筆活動はこういったものです。自分の中にあるものを全部抉り出していく。

『小説家・作家』――ちょっとかっこいいでしょ? 今の僕の全てをぶつけた作品があるので、もしよければ読んでみてください。



 ダサい自分を認める、自分がこれまでの人生をかけて自分を守るために創って来た分厚く高い壁を破壊するところから始めなくちゃいけない。

 次に進めるんです。
 ダサい自分を認めると。

 鎧を脱ぐところから、生身の自分と向き合うところから始めなくちゃいけない。痛みを感じたら、そこに本当の自分が眠っています。たたき起こしてください。

そいつがあなたです。



 積極的分離


 しかし、これらをちゃんとやろうとすると、一回自分の中で人格が崩壊します。これまで作り上げてきた、鎧がバラバラに崩れて剥がれ落ち、生身のあなただけが残り、そこからまた一つずつ自分を作り上げていくことになります。

 これって、相当な痛みが伴う作業です。

『今のあなた』は、付き合っている交友関係や所属している団体があります。普段の生活があります。やらなけらばならないこと、山のようにあります。

 そこで本当の自分と向き合えるような時間をたっぷりとることも難しいでしょうし、いきなり本当の自分をさらけ出すことは難しいです。

 いきなり人格が変わるようなことは、難しい。
 だから、実際に実行するとドロップアウトします。

 断言はできませんが、かなりの痛みを伴う作業です。少なくとも、これは日常生活と並行で器用に行えるものではありません。

 荒波に飛び込んで行くような覚悟が要ります。

 なので、『本当の自分と向き合え』なんて、気安く言えません。
 地獄を見る覚悟がいるからです。

 自分自身や、自身の周りを囲っている人や社会の本質を見抜こうとすると、地獄を見ます。人によっては耐えられずに命を絶つ人だっている。

 向き合わなくて済むのなら、取り繕ったまま何とか生きていけるのであれば、その方がいいのかもしれません。

 ただ、人は年老いて膨大な時間が出来たり、死を前にすると、結局自分が今まで逃げ続けてきたものに強制的に向き合わされます。

 ならば、一度腹をくくって若いうちに戦うと決めてもいいかもしれませんね。

 今まで生きてきたなかで、散々痛い思いをたくさんして学びましたよね。『生きていく』ということは、そんなに楽なことではないんだと。

 大変なことなんだと。

『戦う』と決めましょう。腹をくくりましょう。

 世界中どこへ逃げようとしたって、必ずあなたの前にしつこく立ちはだかってくるテーマがあるはずです。

 そのテーマを受け入れて、歓迎して、共生していかなくてはなりません。

 生きていくとは、闘いなのです。



喪失を超えて、私は強くなる


 これまでの意見を踏まえて考えてみましょう。

 自身の今後を考えるときや自身の深い部分に向き合おうとしたときに、どんなことを考えればいいのか。

 私は、自分の人生で「何が欲しいか」を考えるよりも、「自分はこれまでに何を失ってきたのか」「何に傷ついてきたのか」を考えた方が、後悔のない人生を生きられると思っています。

 それは、これまでにも述べてきたことから分かると思います。人が心の奥底の方で欲しているものは、ダサかったり暗かったりする。

 ただ、同時に『自分の本音』を認めさえすれば、自分が本当に求めているものは割と簡単に手に入ります。

 ですから、やはり傷つくこと、痛みを感じることを覚悟で自分に向き合わなくてはなりません。

 自分の人生で何らかしらに違和感を感じたら、その違和感やもやもやは絶対に放置してはいけません。後で必ず自分の足元を掬われることになります。

 自分の人生に感じる違和感は、癌細胞みたいなものです。放置すればするほど後から治療困難な形となって、私達を襲います。

 早期治療がカギです。
 手遅れになる前に手を打ちましょう。


 傷ついていないなら、まだ何も始まっていない


 もし、どれだけ考えても「自分はまだ何も失っていない」というのであれば、それは「まだ何も始まっていない」ということだと、私は思います。

 人生とは、深く傷ついて、そこで失ったものを取り返しに行く物語。

 生きていくことにとって、傷つくことは、大切なことなんです。生きる原動力なんです。傷つくから、強く生きていけるんだと、私は思います。

 楽しく生きていきたいですね。

 強く、なりたい。

 大人になれ、自分。








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