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ジョン・カーペンター監督 『マウス・オブ・マッドネス』 : 地上に堕ちた「狂気」

映画評:ジョン・カーペンター監督『マウス・オブ・マッドネス』1994年・アメリカ映画)

気になりながらも、ずっと見る機会のなかった作品のひとつである。

このところ、「ヌーヴェル・ヴァーグ」関係のお勉強で、正統派の古典映画ばかり見てきたから、たまにこういうのを見ないと「頭がおかしくなってしまいそうだ」と、本作を見ることにした。

本作が気になっていた理由は、主に次の二つ。

(1)『遊星からの物体X』の、ジョン・カーペンター作品。
(2)「クトゥルフ神話」で知られる、H・P・ラヴクラフトの小説世界を下敷きにしたオマージュ作品。

(1)については、とにかく私は『遊星からの物体X』が好きなのだ。
クローズド・サークルのメンバーの中に、怪物のなりすましがいて、残りのメンバーを次々に襲っていくという、本格ミステリ作品などではよくある「誰が殺人鬼なのか?」パターンのサスペンス。
しかも、この作品の場合、正体不明のモンスターは、殺した人物になり変わっていくから、「誰が殺人鬼なのか?」と問うた場合の「殺人鬼」は、言うなれば、リレー式に交代してゆくのである。つまり、その点でのひねりもあって、連続殺人ものにはありがちな単調さを免れ得てもいる。
だが、やはり本作においてすごいのは、見たこともないような怪物を、リアルに創造し得た点にあろう。

『遊星からの物体X』(1982)では、映画史の古典の理解とそのオリジナリティ溢れる解釈で、当時の観客の想像をはるかに超えた数々のクリーチャーを創造し、従来の侵略物にはなかったショッキングな演出により、その名を世界中に知らしめた。』

(Wikipedia「ジョン・カーペンター」

という部分だ。
ちなみに、この引用文に言う『映画史の古典』とは、1951年にハワード・ホークス監督によって撮られた『遊星よりの物体X』のこと。本作『遊星からの物体X』はリメイク作品だが、本家を超えた作品と評価されているのである。

(『遊星よりの物体X』ポスター)

ともあれ、本作における『当時の観客の想像をはるかに超えた数々のクリーチャーの創造』というのが、ほんとに凄い。

同年には、「CG」映画の先駆けである『トロン』(1982年、スティーブン・リズバーガー監督)が作られていたとはいえ、まだまだ「実物のようなリアルな3D映像を動かす」段階にはなかったため、本作『遊星からの物体X』のクリーチャー(怪物)は、もっぱら、旧来の手作り特撮(SFX)によって作り上げられたものだった。

そしてこの作品が、その特撮において画期的だったのは、オリジナリティあふれるクリーチャーを、観客の目に、ハッキリと見えるかたちで描いてみせた、という点であろう。
と言うのも、それまでのこうした怪物映画というのは、技術的なレベルの問題として、怪物そのものをモロに見せようとはしなかった。見せてしまうと、どうしても「作り物」臭さがバレてしまうため、怪物はいつも暗闇の中に潜んでいて、人間に襲いかかる際にだけ、その姿の一部を一瞬だけ見せる、といったパターンの演出が多かったのだ。
そのため、ポスターなどにイラストで描かれた怪物の登場を期待して映画を見に行った観客(特に子供!)を、めったに満足させることの出来ない、いかにもフラストレーションが溜まるばかりの作品が多かったのである。
まあ、たいがいの場合、最後の最後には、その全貌を見せてはくれるのだが、その場合のそれは動きのないもの(棒立ち的な姿)であり、それが退治される寸前の数カットという感じだったから、それだけでは、とても満足しかねた。やはり、怪物映画というのは『ゴジラ』のように、しっかり見せて、それでも面白いというのが、理想なのである。

その点、『遊星からの物体X』の場合は、物語の前半は、怪物をハッキリとは見せず、物語のサスペンス性で引っ張るのだが、たしか中盤を過ぎたあたりで、その「形態変化する怪物」の「変態(変形)」シーンを、しっかりと見せてくれ、これが、類例を見ないほどリアルで、かつ「どうやって撮ったんだろう?」と思わせる、まさに「感動的な特撮シーン」だったのである。

私が、同作における「怪物の変態シーン」に匹敵するほどの衝撃を受けたものとしては、『ターミネーター2』(1991年、ジェームズ・キャメロン監督)に登場した、流体金属製ロボット「T-1000」の化けた金髪の白人警察官が、鉄格子をそのまままっすぐすり抜けるシーンだ。鉄格子に向かって歩いてきた彼は、そのまま鉄格子が体の中にめり込むかたちで通り抜ける(最後に、手にしていた拳銃だけが本物だったので鉄格子に引っかかるという描写が、演出的に卓抜だった)のだが、要は、本質が「流体金属」であり、体を固体にも流体にも変化させられるから、鉄格子の通り抜けの際は、体を半流体化させたということなのだろう。
ともあれこれは、「CG」で表現されたカットであり、今となっては(拳銃が引っかかる演出以外は)「どうということはない」のだが、この作品が登場するまでは、「3DCG」をここまで見事に使ってみせた作品はなかったので、私は「すごい」と驚愕し、感動したのである。

だが、問題なのは、それも『今となっては、「どうということはない」』という点にある。
私たちはすでに「CGなら、何でも表現できる」というのを知っているから、「実写ではできないこと」を見せられただけでは、驚くこともないし、まして感動などすることなどできない。

だから今では、「3DCG」を使った作品においては、単に「見たこともないものを、リアルに見せる」だけではダメなのだ。観客の方が「何でも出来る」と知っており、その目で見るから、大抵のものは「ふーん」ということにしかならない。
したがって、「3DCG」で驚かせ、感動させるためには、「リアル」であるのは当然の前提として、そのビジョン自体が「誰も想像したことのないようなもの」でなければならないのだ。
「小説」の中でも「漫画」の中でも描かれたことのないようなものを、リアルに具体的に描いて見せて、初めて観客は驚くのである。

つまり、今、「3DCG」シーンにおいて重要なのは、「見たことのないものを見せる」ことではなく、「前例のないビジョンを生み出す」という、作家の「想像力」なのである。一一だが、言うまでもなく、そうしたビジョンというのは、誰にでも生み出せるという性格のものではない。ごく限られた、「特異なビジュアルセンス」を持つ映像作家にしか、それは不可能なことなのだ。だから、今のほとんどの「3DCG」モンスター映画には、映像そのものへの驚きがない無いのである。

しかしだ、多くの「3DCG」映画が、かつての名作でさえ、そうした部分では、見馴れられ飽きられてしまうようになったのに対して、本作『遊星からの物体X』の「怪物の変態シーン」は、いま見ても「感動的」である。

(十分見せた後の逆光が、かえって効果的)

なぜ感動的なのかというその理由は、私が思うには、手作りの特撮によるクリーチャーは「現に存在している」から、である。
ここで言う「現に存在している」というのは、「そのような怪物が実在している」という意味では無論なくて、その怪物が「作り物」として、現実に存在している、という意味である。
というのも、「CG」によって描かれるクリーチャーは、どんなにリアルであっても、それは所詮、デジタルデータであり、二次元の画面上にのみ存在し得る、三次元的な実態を持たない「仮想的なもの」でしかなく、それを知っているから、私たちはそれに馴れて、驚けなくなってしまったのだ。

だが、手作りの特撮によって作られたクリーチャーたちは、「物」としての、三次元的な物理的実体を持っている。
だから、それが「よく出来ているかぎりにおいて」、それが「現実(実物・動くオブジェ)」としての迫力(存在感)を持つことにもなる。
『遊星からの物体X』の「怪物の変態シーン」は、まさにそういうものだったのである。

以上の議論は、すでに、下のレビューでも「リアルとは何か?」という問題として論じているので、ここでは、これまでにしておく。

ともあれ、本作における「怪物の変態シーン」は、いま見ても素晴らしく、感動的なものなのだ。一一と、ここまで高く評価しているからこそ、私は、ジョン・カーペンター監督のファンにもなった。

こうした経緯でファンとなり、期待して他の作品を見たのだが、一一正直なところ、どれも満足できる出来ではなくて、数作見るうちに、カーペンター監督に期待することはやめてしまった。
「『遊星からの物体X』は、神がかりの傑作であり、監督にとっても、例外的な傑作だったのだろう」と、そう考えて、諦めることにしたのである。

もちろん、熱心なカーペンターファンなら、どれも「それなりに面白い」「カーペンター節を味わうべきだ」というようなことをおっしゃるのであろうし、それが間違いではないことは、私もわかっている。

だが、私が求めているのは、「カーペンター監督の個性」ではなくて、誰のものでもいいから、とにかく良くできた「特撮的な映像」なのだ。「見たこともないだけではなく、驚きと感動を与えてくれる映像体験」なのである。
言い換えれば、私が求めているのは、「B級映画」ではなく「A級の感動を与えてくれる、B級的ビジョンを見せてくれる作品」なのである。

 ○ ○ ○

そんなわけで、ここまではほとんど『遊星からの物体X』論になってしまったが、こうなったのは、結局のところ、本作『マウス・オブ・マッドネス』が、期待外れだったから、である。

上の説明のとおり、いったんは期待することを止めたカーペンター作品を、ひさしぶりに見ることにした理由とは、最初にも書いたとおり、ひとつには本作が『ラヴクラフトの小説世界を下敷きにしたオマージュ作品』だったからである。
そのあたりをどの程度表現できているのか、それを知りたくて見た、という側面が大きい。私としては「すでに、カーペンター監督には多くを期待しない。期待はしないが、いちおう気になる部分だけは確認しておきたい」と、そんな気持ちで本作を見たのである。

そしてその結果は、「思った以上に凡作」だった。ほとんど、褒められるところがなかったのである。

まあ、こういう厳しい評価になってしまうのは、本作の「ストーリー」が、私の守備範囲にスッポリとハマってしまうものであり、だからこそ「ネタは面白いのに、ぜんぜん映像化できていない。もったいない」とそう感じたからであろう。だから余計に、評価が辛くなってしまったのだと思う。

先に書いておくと、本作でも、「怪物(クリーチャー)」である「クトゥルフもどき」は、昔の怪物映画のような「チラ見せ」に終始して、その点では、ほとんど映画的に先祖返りしているとしか言えないものであった。
要は『遊星からの物体X』から、ずいぶん後退してしまっているのだ。きっと、予算が少なかったのだろう一一と、そう思いたいところだ。したがって、「特撮シーン」に見るべきところはない。

(動いていると、余計に形態がよくわからない)

まあ、冒頭の「精神病院」とか「悪夢の中の路地」、あるいは、作中のホラー作家サター・ケインの小説の中にだけ存在するはずの「ボブの街」のホテルの前庭に、主人公たちの車が入っていくシーンなど、いくつかの「風景」シーンには映像的な冴えを感じさせるものの、それが作品全体を支えるには至っておらず、肝心の、怪物が登場する悪夢のシーン、つまり、こちらが期待しているシーンほどチープになってしまっているのは、いかにも残念で、本稿読者には、「そうした映像的な見せ場には期待しないように」と、あらかじめ言っておきたい。

次に、『ラヴクラフトの小説世界を下敷きにしたオマージュ作品』という側面だが、たしかにそういうお話にはなっている。
世界的な人気ホラー作家が、異空間に閉じ込められている、この世界の先住民であった「邪なる神々」に憑かれてしまい、その感化力(呪い)の込められた小説本(18ヶ国語にも翻訳される)を販売したことにより、多くの人たちがその影響を受け、暴力的な狂気を発し始める。そうした狂気が広まることで、封印されていた「邪なる神々」は力を得て、再びこの世に現れ出ようとしている。一一と、そんなお話なのだ。

でまあ、この『この世界の先住民である「邪なる神々」』というところが、H・P・ラヴクラフトの「クトゥルフ神話」を下敷きにしており、オマージュともなっているのだが、しかしそれは、そんな気持ち(ファン的オマージュ)はあっても、それが「映像化されている」とは到底言えず、ただそういう「意図があった」というに止まっているのである。
だから、ラブクラフトファンが、その部分に気づいて「ニヤリとする」程度のことはあっても、それ以上のものにはなっていない。
したがって、ラブクラフト映画には違いないが、ラヴクラフト映画として、よく出来ているというわけではない、ということになってしまうのである。
だから、この点についても、過剰な期待は禁物なのだ。

さて、すでに、そのあらましは紹介しておいたのだが、ここで正式な「ストーリー紹介」といこう。

『「自分の作品は現実だ」と言い残して失踪したベストセラー・ホラー作家サター・ケイン。彼に保険金を掛けていた出版社の社長と担当編集者リンダは、保険調査員のトレントにケインの捜索を依頼する。奇妙にも仕事を受ける直前にトレントは発狂した男に襲われており、警官に射殺されたその狂人こそがケインの居場所を唯一知る出版仲介人であった。トレントは読者を狂わせると曰く付きのケインの小説を読み漁り悪夢に悩まされるようになるが、小説の表紙がニューハンプシャー州の地図になっていることを突き止め、リンダを連れて調査へ向かう。道中様々な怪奇現象に見舞われながらも到着した場所にあったのは、ケインの小説に登場する「ホブの街」と寸分違わぬ街だった。出版社が用意した謎解き企画のセットではないかと疑うトレントだったが、徐々に小説が現実を浸蝕する悪夢の世界に巻き込まれていく。』

(Wikipedia「マウス・オブ・マッドネス」の「あらすじ」より)

先に『本作の「ストーリー」が、私の守備範囲にスッポリとハマってしまうものであり、だからこそ「ネタは面白いのに、ぜんぜん映像化できていない。もったいない」とそう感じた』と書いたが、それがここで言う『徐々に小説が現実を浸蝕する悪夢の世界に巻き込まれていく。』という部分だ。

(ホラー作家サター・ケイン)

「呪われた本を読んだために、徐々に狂気の世界に捕らわれていく」主人公を描いたホラー作品というのは、それなりに作られているはずだが、「傑作」として思い出せるような作品は、ただのひとつもない。
つまり、これまでのそうした映画は、すべて「凡作」止まりということだ。そして、本作もその例外ではない。

(リアリストの保険調査員ジョン・トレント)

しかも、私の場合、こういうパターンのお話については、これまでいくつも「小説」作品として楽しんできたので、そうした「傑作小説」と、どうしても比較してしまうから、同種のホラー映画には厳しくなってしまうし、本作についても同断なのだ。

で、そうした「傑作小説」の代表的な作品が、本邦における「三大奇書」のひとつ、読んで発狂した読者がいるという「伝説」が、一定の説得力を持って、まことしやかに語られたこともある、夢野久作の探偵小説『ドグラ・マグラ』である。

(『ドグラ・マグラ』1935年(昭和10年)初版本)
(角川文庫版・上巻)

この作品には、「怪物」だの「異形のもの」だのといったものは登場せず、もっぱら、精神病院の入院患者である主人公が、自身の失われた過去の探ろうとして徐々に狂気に囚われていく、といったようなお話である。その作中に、作品と同じタイトルの『ドグラ・マグラ』という書物も登場して、要は「入れ子構造」をなしてもいるのだ。

で、もともと「狂人」だから精神病院に入れられていたはずの主人公が、真相を知ろうとする過程で徐々におかしくなっていくというのは「自己矛盾ではないか」と思われる方もあろうが、そこが『ドグラ・マグラ』の上手いところなのである。
というのも、狂人であっても、その主観において当人は「正常」なつもりだからであり、その「狂気の中の正常意識」が狂っていくとはどういうことなのか、どういう状態になるのかと、それが読者をも混乱させて、読者を「狂気の世界」へ誘ってくれるような作品なのだ。また、だからこそ「本書を読んで狂った者がある」というデマも、信憑性の感じられるものとなっているのだ。

で、そんな100年に一度の傑作「小説」を読んでいる私に、そんな「小説」と比較されたのでは、「映画」の方も、たまったものではないと、そうお考えの方もおられるだろう。だが、体験は消せないのだから、これは仕方のないことだ。
「具体的に絵にする必要がない」「頭の中で、読者それぞれにイメージさせるだけで良い」という「小説」と比較されては、「映画」が不利だというのは、わからない話ではないのだが、しかし、そうした「狂気のリアル」(※ 現実の狂気のことではない。狂気のイメージのリアルさのこと)というのも、単純に「小説だから(容易に)可能だ」ということではなかろう。だからこそ『ドグラ・マグラ』は「100年に一度の傑作」なのである(それに対し、映画の歴史は、たかだか130年ほどなのだ)。

つまり、映画には映画なりの、「小説」にはない「映像」という強みを活かした「狂気の描写」が期待されよう。
だが、それに成功した作品はほとんどないし、まして本作程度ではまったく物足りないということなのだ。

それに私は、ホラー映画を見て、あるいはお化け屋敷でも良いが、そういう「作り物の恐怖」を「怖い」と感じたことが、子供時分を除けば、ほとんどないような人間だから、評価が人並みよりも厳しいということはあるだろう。
だが、本作に関して言えば、あらかじめ鑑賞者のがわに「B級ホラーなんて、もともとこんなもの」といった、舐めた「先入観」でもないかぎり、決して満足できないような作品であるだけ、なのだ。当たり前に「期待して」見てはいけない作品にしかなっていないだけ、なのある。

例えば、先に書いたように「チラ見せしかしないクリーチャー」といったことだけではなく、過去と未来の「記憶」が交錯する「フラッシュバック」表現などは、きわめて安直であり、もう少し見せ方を工夫できなかったのかと思ってしまうほど、パターンに堕しているし、狂気の群衆から車で逃げ出したはずなのに「いつの間にか、元の場所に戻っていた」という、ホラー映画の常套シーンの、さらにその「繰り返し」も、見せ方に何の工夫もないから、こちらは「そのパターンね」と思うだけで、いっこうに「狂気の世界から逃れられない(閉じ込められた)恐怖」という演出効果が出ていない。

(悪夢から覚めたら、夢の中の怪物警官が横にいたという「悪夢から覚めたらまた悪夢」のパターン)

「存在したはずの人物が、存在しなかった(と他人から指摘される)」とか「自分が、記憶にはない行動をしていたという事実がある(と他人から指摘される)」といった、主人公の「アイデンティティ(自己同一性)に関わる恐怖」描写も、「いつものパターン」を脱しておらず、やはり「そのパターンね」という感想で終わってしまう。
つまり、結論として言えば、本作は「ネタ的には面白いのに、見せ方が陳腐だから、退屈でチープな凡作になってしまっている」のだ。
 
くり返して言うが、「B級ホラーとは、もともとそういうものなんだよ」とおっしゃるホラー映画マニアの「訳知り顔」には、私は与する気はない。
『遊星からの物体X』がそうであったように、ネタ自体は、よくあるものであっても、見せ方ひとつで面白くなるし、当たり前に「傑作映画」にもなる。
しかも、「ホラー映画の傑作」「特撮映画の傑作」ではなく、「傑作映画」になりえると、私は信じているからこそ、本作の出来には満足できない。

「低予算」作品ではあったかもしれないが、しかし「情熱」があれば、もう少し「工夫」もできたのではないかと、そんな感じの残るところが、何より残念だったのである。

「Wikipedia」のよると、ジョン・カーペンターは、「尊敬している映画人や作品」について、次のように語っているそうだ。

『  尊敬している映画人や作品
アルフレッド・ヒッチコックオーソン・ウェルズを敬愛しており、『ハロウィン』や『ザ・フォッグ』などのホラー作品にイタリア映画のダリオ・アルジェントサスペリアPART2』やセルジオ・マルチーノ『影なき淫獣』等のイタリアンホラーやスペインの『エル・ゾンビ I 死霊騎士団の覚醒』などの『エル・ゾンビ』シリーズの影響を受けている。また『ハロウィン』冒頭数分の長回しはウェルズの『黒い罠』のオマージュで知られ、『捜索者』などのジョン・フォード作品や同年代のスティーヴン・スピルバーグ作品の影響も指摘されている。日本の『ゴジラ』を始めとする東宝特撮怪獣映画のファンであり、特にキングギドラが好きな怪獣で、「ジョン・カーペンター研究家」として知られる映画文筆家の鷲巣義明がアメリカに取材でカーペンターを訪ねた際に、鷲巣からキングギドラの人形を貰い喜んだ。

日本の黒澤明小津安二郎を敬愛し、スペインのルイス・ブニュエルシュルレアリスム映画の影響も濃く受けている。

敬愛している映画作家たちの中で、とりわけハワード・ホークス作品からの影響やホークスへの尊敬は広く知られており、特に『ジョン・カーペンターの要塞警察』や『ゴースト・オブ・マーズ』は、ジョン・ウェイン主演の『リオ・ブラボー』のオマージュ作品であり、その他の多くの作品にもホークス作品の影響が強いと知られている。カーペンターファンの青山真治監督や阿部和重中原昌也の対談で、『ゴースト・オブ・マーズ』と黒澤明影武者』に同じ動作のアクションシーンがあるが、後者の描写が凡庸であるのに対して『ゴースト・オブ・マーズ』の描写は素晴らしいという発言を出した。』

これを読んで、「なるほど」と思わせる部分も確かにある。だが、それでも本作が「凡作」に終わっているのは、単に「低予算」といったような問題でも、カーペンター監督の「話づくりや演出の不味さ」といったことだけでもなく、やはり、名監督たちの影響の片鱗を見せながらも、全体としては「B級の凡作」の止まっているというのは、恵まれない制作条件を跳ね返すだけの「情熱」を、もはやカーペンター監督が失っており、ただ「趣味に偏した」作品を作っただけ、ということなのではないだろうか。言い換えれば、「趣味に走った」だけで、そこに「情熱」が籠るわけではなく、それだけでは不十分だということである。

「傑作」が生まれる時には、「狂気」にも似た「非常な情熱」が発せられるものであり、だからこそ、その作家の中でも「特に傑出した作品」というのも、まるで恩寵のように生み出されるのではないか。

だが、そういう作品を生み出すためには、やはり「恩寵の器=天啓の器」たるに値する「情熱」くらいは、持っていなければならないだろう。それは「最低必要条件」なのである。




(2024年7月23日)

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