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映画 『大アマゾンの半魚人』 : 半魚人をめぐる あれこれ

映画評:ジャック・アーノルド監督『大アマゾンの半魚人』1954年・アメリカ映画)

本編の主人公ではないはずだが、まあ実質的に主人公である半魚人が、「ギルマン(エラ人間)」という名称で呼ばれているというのは、本稿を書くために「Wikipedia」などを読んでいて、初めて知った。
私はこれまで、子供の頃にそう呼んでいた通称で「半魚人」あるいは「アマゾンの半魚人」と呼んでいたのだ。タイトルの頭に「大」が付いているのも知らなかった。

私が子供の頃、外国映画のモンスターといえば、ドラキュラフランケンシュタイン狼男に次いで、半魚人という感じだったのだが、デザイン的には、半魚人がいちばん「怪獣」っぽくて好きだった。その次がデカいフランケンで、ドラキュラ、狼男という順だろうか。
ドラキュラ伯爵は、血を吸う時以外はただの「礼服を着た紳士」で、その点では、毛むくじゃらの狼男よりも、当たり前に人間と言えば人間なのだが、狼男よりも謎めいた悪魔性があって怖かったから、私の中では順位が上だったのだと思う。狼男は、あまりカッコいいとは思わなかったのだ。

私が子供の頃の漫画では、藤子不二雄『怪物くん』には、怪物の国である「怪物ランド」の王子様である怪物くんの家来として、ドラキュラ、フランケン、狼男の三人衆(?)がレギュラーキャラクターとして登場するが、著作権的には問題はなかったのだろうか? あるいは当時でも一応は、ユニバーサル映画に許可を得たのだろうか?

(アニメ『怪物くん』)

その他には、手塚治虫『バンパイヤ』が狼男を扱っており、この作品では、実写の人間が月夜に狼に変身する。ユニバーサル映画の狼男とは違って、毛むくじゃらの狼人間になるわけではなく、完全な狼になってしまう。また、変身後の狼の部分は、手塚マンガのキャラによる二次元アニメの合成で表現されていた。だから、モンスターものという印象も、狼男ものという印象も薄く、ユニバーサル映画の狼男というよりは、ヨーロッパの人狼伝説に直接取材したようなかたちになっているので、この作品の場合は、ユニバーサル社から注文がつくこともなかっただろう。
詳しくは知らないが、タイトルが、普通は「吸血鬼」や「悪霊・死霊」を意味する「バンパイヤ」になっているのは、ヨーロッパの民間伝承では、コウモリや狼などが、魔物の化身であったり「使い魔」だと考えられたから、そうした広い意味での「魔族」として、「バンパイヤ」と題されたのかも知れない。

(ドラマ『バンパイヤ』。主演は、子役時代の水谷豊

これも「Wikipedia」で今回初めて知ったのだが、ドラキュラ、フランケン、狼男は、この順で作られた、ユニバーサル映画の専属モンスターなんだそうで、半魚人は4番目になるらしい。
子供の頃に考えていた、なんとなくドラキュラ、フランケン、狼男の順に代表的なモンスターがいて、その次あたりに、ちょっとマニアックな半魚人がいる、というような感覚は、モンスター映画の成立事情を知った今から思えば、やはり、制作順による、世間での呼ばれ方に影響を受けたものだったのであろう。

だが、順番はどうであれ、デザイン的には半魚人が、一番カッコいい。私が子供の頃に見た特撮テレビドラマ『ウルトラQ』『ウルトラマン』には、「ラゴン」という怪獣が出てくるが、これは明らかに半魚人の影響を受けたデザインだった。
半魚人が坊主頭なのに対し、ラゴンの方は髪の毛様のヒレが逆立っているみたいなデザインで、顔以外の印象は、きわめて近かったのだが、顔は、半魚人のほうがカッコよかった。また、半魚人の目は「魚の目」だったが、ラゴンの目は、どこを向いているのかわからないような、頼りない目線だった。
ちなみに、ラゴンという名前は、H・P・ラヴクラフトの半魚人族「ダゴン」から取ったもののようだ。

(『ウルトラQ』のラゴン。人間に害はなさない)

ともあれ、ドラキュラ、フランケン、狼男の映画なら、子供の頃にテレビで見た記憶があるのだが、なぜか半魚人だけは、映画館は無論、テレビでも見たという記憶がない。
モノクロ映画なので、テレビがカラーになってからは放映できなかっただろうが、ドラキュラ、フランケン、狼男は、モノクロの時代に見ているのだから、どうして半魚人だけ見ていないのかが、謎である。見て忘れたのではなく、見たい見たいと思いながら見られなかったのだから、たぶん記憶違いではないと思う。
もしかすると、テレビではやれない理由でもあったのだろうか? しかし、今回見たかぎりでは、特に放送コードに引っ掛かるような部分はないし、これも今回初めて知ったことなのだが、半魚人には続編が2作も作られており、三部作を構成する作品なのだが、そのいずれも見た記憶がないのだから、どうにも謎である。

ちなみに、第2作の『半魚人の逆襲』では、若きクリント・イーストウッドが、ちょい役で出演しているというのは、DVDの特典映像で確認した。

(私が見たDVDはこれ)

本作に関するこうした「基本的な情報や裏話」は、私の見たDVDのコメンタリーで語られ尽くされており、それに本作の「Wikipedia」と、「映画.com」への「あき240」氏のカスタマーレビュー「SFファンなら絶対に観ていなければなりません」を読めば、おおよそのところは押さえられる。「あき240」氏は「SFファン」と名乗るだけあって、内容のかぶるネタもあるが、DVDのコメンタリーには無かったネタもいくつか紹介なさっている。

そんなわけで、「DVDのコメンタリー」「Wikipedia」「あき240氏のカスタマーレビュー」に書かれていることと被らないことを書こうとすると、どうしても最初に書いたような「子供の頃の思い出」みたいなことになってしまう。

本作の場合、お話自体は、古いモンスター映画のご多分に漏れず、言うなれば、どうってことのないものであり、肝心なのは、モンスターの見せ方だということになるだろう。
で、その点に注目すると、真っ先に目につくのは、次の2点ということになる。

(1)半魚人の、水中で泳ぐ様と水中格闘シーンすごい。
(2)水面を泳いでいる美女の姿に魅せられて、水面下でシンクロするように泳ぐ、「求愛行動」的にも見える半魚人の「水中ダンス」が、モンスター映画としては、出色である。

まず(1)だが、とにかく、あの全身スーツ的な姿で、水中を自在かつ自然に泳いでいる姿がすごい。
昔の『ウルトラマン』などでは、腰まで水に入った格闘シーンなどを撮影すると、着ぐるみが水を吸ってとても重くなる、といった話を、少年誌などでさんざ読んだのだが、この映画の場合は、水に入るどころか、完全に水中を泳ぐのである。しかも、完全に自然な泳ぎで。
続編のことはよく知らないが、本編『大アマゾンの半魚人』の場合は「水中撮影の3D映画」というのが売りだったので(日本では2Dのみ)、長すぎるくらいに水中シーンが多かったのだが、それがいっさい特撮なし」で、まんま着ぐるみで泳いで、それを撮影しているのだからすごい。
これは、半魚人の水中シーンを演じた俳優が、もとは水中ショーの俳優だったからできたというのと、水中シーン用のモンスタースーツは、正確には「着ぐるみ」ではなく、頭、胴体、両腕、両脚という具合に分かれており、それを着装していた「着ぐるみと特殊メイクの中間的なもの」だったので、まんまの「着ぐるみ」よりは動きやすかったようなのだが、それでもやっぱりすごい。
実際、「ウルトラマンシリーズ」での水中シーンは、いくら後になっても「特撮」処理であり、実際にウルトラマンが、水中に入って泳いでいる姿というのは、誰も見たことがないはずである。だから、そうした点でも、半魚人の「特撮なし」の水中シーンは、むしろ新鮮に感じられたのだろう。これは必見のポイントと言って良いと思う。

(2)の「半魚人のシンクロ遊泳」の方は、もちろん、作品の中で具体的にそれが「性的な意味合い」を持つものだとは語られていない。
ヒロインの美女が水面を遊泳していると、それに気づいた半魚人がヒロインに近づいていく。で、観客は、ヒロインが襲われ、水底に引きずり込まれるのかと思いきや、半魚人は、水面から3メートルほどの距離をとりながらヒロインが泳ぐのに平行して泳ぎ、最後は立ち泳ぎしているヒロインの足に触れようとするのだが、それも恐る恐るという感じで、ヒロインが足を動かすと、ビクッと驚いたようになって、水底へひき上げてしまうのである。この間、ヒロインは水面下の半魚人には、まったく気づいていないのだ。

(この画像では浅く見えるが、映画だと、ずっと深い)

でまあ、コメンタリーで多くの人が語っていたように、これは言うなれば『美女と野獣』のパターンなのだが、ただ、それとは違って、こちらは完全に一方的なもの(片思い)であり、半魚人の行動は、言うなれば「美しい白人の姫君に憧れる土人」みたいな、いささか人種的偏見を秘めたもののようにも思えた。
だが、まあ、半魚人を「悪のモンスター」として描いていない点では、その続編で「半魚人が捕らえられ、見せ物として都会に連れ出され、逃げ出して大暴れしたあと殺される」というパターンからも分かるように、大ヒット作である『キングコング』(初代)の影響を色濃く受けた作品だと言えるだろう。ドラキュラよりも、フランケンシュタインの怪物に近い、同情されるべきモンスターとして描かれている点に特徴があるのだ。

また、そのようなことから、本作には「自然を探究する良心的な(言うなれば、善の)科学者」と「功名心に駆られる(悪の)科学者」が登場し、半魚人の処遇をめぐって対立するのだが、最後は「悪の科学者」は殺され、一方、「善の博士」の方は、銃撃されて深傷を負った半魚人がヨロヨロと水の中へ逃げ帰ろうとするのを、脇役の人物が撃ち殺そうとすると、「やめておけ」と制止して、半魚人を逃がしてやる。このラストにも、本作の基本路線がよく表れていると言えよう。
もちろん、最近の映画でもよくやるように、続編を考慮して「死ななかったかもしれない」という含みを持たせたという部分もあったのかもしれないが、それでも、半魚人がよろけながら水の中に帰っていく姿は、哀れを催させるものがあって、なかなか良いシーンになっていたと思う。

ちなみに、本作が制作された「1954年」というのは、アメリカで黒人による「公民権運動」が動き出す前夜だったので、多少は「差別」に対する問題意識というのも、一部の白人には生まれつつあったのかもしれない。公民権運動の発火点となった、ローザ・パークス女史の「バスボイコット事件」が発生したのは、1955年12月であった。

あと、半魚人の姿を見ていて改めて目についたのは、背が高く腕や脚が細くて長い「ノッポ型」だという点である。
これは半魚人を演じた俳優の体型に合わせてスーツを作った結果なのだろうが、スーツアクターは、頭が小さくて、腕や脚が太すぎないというのが、重要なポイントなのだろう。いくらスーツアクターには体力と運動神経が必要だとは言っても、ムキムキの身体では、スーツを纏った時の姿が野暮ったくなってしまう。

(宣伝用スチールと思われる)

その点、ドラキュラ、フランケン、狼男のように「着衣したモンスター」とは違い、水中の半魚人を演じたリコウ・ブラウニングは、言うなれば「裸のモンスター」のスーツアクターとして、結果的にベストな体型だったのだろう(陸上のシーンは、別の俳優が演じた)。
また同様に、本邦の「ウルトラマン」や「ケムール人」のスーツアクターであった古谷敏も「ノッポ型」であり、人型のモンスターを演じるのにはピッタリの体型だったのであろう。
私の場合、『ウルトラマンA』以降のモンスター、特に人型宇宙人の、妙に「垢抜けない」感じがして嫌いだったのだが、それは「いかにも(分厚い)着ぐるみを着ています」という感じが嫌だったということではなかったろうかと、今になって思うのである。
一一まあ、それにしても、半魚人の場合は、さすがに、日本人のスーツアクターに比べると「脚が長い」。だからこそ、水中で泳いでも絵になったのではないだろうか。

(ウルトラマンと古谷敏)
(『ウルトラQ』より、古谷敏の演じたケムール人)

そんなわけで、今回は、作品の中身的なものにはほとんど踏み込まなかったが、こうしたモンスター映画は、それこそ「物語の中身」ではなく、「いかに、モンスターを魅力的に見せるか」がポイントとなるのだろう。その意味では、モンスター映画に必ず登場した「美女」さえも、モンスターの「引き立て役」だったのである。

最後になったが、当然のことながら、この半魚人というキャラクターにも熱心なファンがいて、その代表格が、半魚人映画である『シェイプ・オブ・ウォーター』でアカデミー賞を受賞した、ギレルモ・デル・トロであろう。

(映画のラストシーンに当たるイメージ)

『シェイプ・オブ・ウォーター』では、捕えられた半魚人に恋をした女性が、半魚人を逃してやり、最後は二人で海へ帰っていくというお話で、言うなれば、『人魚姫』の裏返しでもあれば、本作『大アマゾンの半魚人』の裏返しだとも言えるだろう。半魚人が人間の女性に惚れるのではなく、その逆なのだ。
ロードショーで『シェイプ・オブ・ウォーター』を見た際、私は、人間の女性が、いかにもグロテスクな半魚人に惚れるという設定は、ちょっと無理があるのではないかと思ったのだが、しかしそれは、一種の「外見的な偏見」であって、必ずしも「あり得ない話」ではないのだろう。
誤解されては困るのだが、白人女性が初めて有色人種の男性と結婚した際には、私が『シェイプ・オブ・ウォーター』に感じたような、忌避感なり違和感を感じた白人が大勢いたはずなのだ。だが、今となっては、そうした感覚も過去のものとなっている。

デル・トロは、『シェイプ・オブ・ウォーター』以前、アメコミ原作である『ヘル・ボーイ』とその続編『ヘル・ボーイ ゴールデン・アーミー』で、主人公のヘルボーイの相棒である半魚人、ニックネーム「ブルー」を描いているが、いかにもこだわりを持って半魚人を描いているのがよく分かる、秀逸なキャラクターだ。

デル・トロの作品では、実のところ私は、アカデミー賞受賞作の『シェイプ・オブ・ウォーター』は無論、マニアックな人気を誇る『パンズ・ラビリンス』などよりも、この「ヘル・ボーイ」二部作が好きなのだ。
デル・トロの作品には、「異形の悲しみ」みたいなものが、けっこう色濃くにじんだ作品が多くて、そこがイマイチ私の趣味ではないのだが、「ヘル・ボーイ」シリーズの場合は、原作付きということで、そのあたりが適度に抑制されていたから、私にはそこが良かったのであろう。
もっとも、そのあたりが無いに等しいロボットアクションものである『パシフィック・リム』などは、それはそれで物足りなくはあるのだが。

以上、いささかまとまりを欠く文章となってしまったが、要は「半魚人をめぐる、私のあれこれ」エッセイだと思っていただければ幸いである。

結論としては、「半魚人、バンザイ!」といったところだろうか。



(2024年7月3日)

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