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#歴史小説が好き

歴史小説「Two of Us」第4章J‐28 (The Epilogue) 

歴史小説「Two of Us」第4章J‐28 (The Epilogue) 

~細川忠興&ガラシャ珠子夫妻の生涯~

第4章 On A ”SABO Tea Room” About Some Last Scenes 

J‐28

 細川ガラシャ珠子は、400年以上も大嘘をつき通しました。忠興もまた、同じく最後の最後、辞世の句で嘘をついたのです。

 けれどもその二つの辞世の句は、二人にとっては真実そのものだったのです。二人にだけ分かり合えるメッセージは、魂の真実そのもの。第

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歴史小説「Two of Us」第4章J‐27

歴史小説「Two of Us」第4章J‐27

~細川忠興&ガラシャ珠子夫妻の生涯~

第4章 On A ”SABO Tea Room” About Some Last Scenes 

J‐27

 1642年ヨーロッパでは、イングランド・アイルランド・スコットランドでの、「ピューリタン革命」が勃発している。いわゆる市民大衆の宗教信仰の自由や弾圧への内乱としての革命である。その後、大英帝国は飛躍的に世界進出を果たして行く。武闘の争いでなく、経

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歴史小説「Two of Us」第4章J‐26

歴史小説「Two of Us」第4章J‐26

~細川忠興&ガラシャ珠子夫妻の生涯~

第4章 On A ”SABO Tea Room” About Some Last Scenes 

J‐26

 1638年、寛永拾伍年の卯月を迎えた。
 細川忠興の七拾四歳の誕生日(11月13日)までは、ガラシャ珠子は、たしかに八代城の忠興のそばに居て、歌詠みをしていた。

 その日、忠興は肥後藩熊本城本丸へ参内し、嫡男忠利が政務を行う参議の場に、同席。

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歴史小説「Two of Us」第4章J-25

歴史小説「Two of Us」第4章J-25

~細川忠興&ガラシャ珠子夫妻の生涯~

第4章 On A ”SABO Tea Room” About Some Last Scenes 

J‐25

 おっとりとした口調で、引き続き細川忠利は【島原・天草の一揆】の現状を語る。
 向かい合った席には、高田焼の茶碗をゆっくり口に運ぶ、細川忠興。傍ら斜め後ろに、ガラシャ珠子。
 竹林の重なる揺らぎ音と、傾く陽射しの障子窓。

「単なる百姓一揆ならば、

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歴史小説「Two of Us」第4章J‐24

歴史小説「Two of Us」第4章J‐24

~細川忠興&ガラシャ珠子夫妻の生涯~

第4章 On A ”SABO Tea Room” About Some Last Scenes 

J‐24

 寛永十四年拾壱月末(1637年12月)、江戸城大奥の春日局(かすがのつぼね)から、肥後藩隠居の八代城松江の北の丸に住まうガラシャ珠子のもとへ、密書文が届けられた。

 春日局とは、明智家元家臣斎藤利三の娘、福である。地元九州の民でさえ、この八代城

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歴史小説「Two of Us」第4章J‐23

歴史小説「Two of Us」第4章J‐23

~細川忠興&ガラシャ珠子夫妻の生涯~

第4章 On A ”SABO Tea Room” About Some Last Scenes 

J‐23

 花畑屋敷は、ほぼ平屋建ての造り。
 肥後熊本城は、細川忠興が大きな地震を予想し、堀の石垣や本丸天守閣など、大規模な改修工事を行っていた。忠興は京都盆地の育ちではあるが、『何を思ってこのような自然災害に脆弱な平城を建立したのか。。。❓』と、故加藤

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歴史小説「Two of Us」第4章J‐22

歴史小説「Two of Us」第4章J‐22

~細川忠興&ガラシャ珠子夫妻の生涯~

第4章 On A ”SABO Tea Room” About Some Last Scenes 

J‐22

 朝日がこぼれ差し込む、熊本城内の庭。新緑の静かな清々しさが聴こえて来そうな、三畳程の建付けの茶室。

 寛永五年五月(1628年6月)、和紙の障子格子を通して、忠興(細川三斎宗立)はおもむろに、竹林の軽やかに揺れる丸窓の影を眺めた。幻の名品『平雲

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歴史小説「Two of Us」第4章J‐21

歴史小説「Two of Us」第4章J‐21

~細川忠興&ガラシャ珠子夫妻の生涯~
第4章 Foward to〈HINOKUNI〉Country

J‐21

 帰路に着いた、細川忠興一行。
 奥州から何泊かしながらも、道中は足は休めずに来た4名は、京への入り口、西へ行けば備前や播磨その手前の長岡(長岡京市)、まっすぐ桂川を越えれば五条通への坂道で、一服休憩の腰を下ろす事にする。

 〈沓掛〉は現在も北京都や山陰への玄関、縦貫道のインターチェ

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歴史小説「Two of Us」第4章J‐20

歴史小説「Two of Us」第4章J‐20

~細川忠興&ガラシャ珠子夫妻の生涯~
第4章 Foward to〈HINOKUNI〉Country

J‐20

 17世紀初頭からの、細川忠興の足跡について特筆すべき事柄は、多彩で奥深い道へのクリエイター活動である。

 明治時代以降に、ヨーロッパの文化を輸入したために【逆輸入】で細川ガラシャの認知度が日本国内でも上昇した。
 だけれど、それまでは三英傑の片腕を担い、勝ち続けた闘将の『肥後もっこ

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歴史小説「Two of Us」第4章J‐19

歴史小説「Two of Us」第4章J‐19

~細川忠興&ガラシャ珠子夫妻の生涯~
第4章 Foward to〈HINOKUNI〉Country

J‐19

 【玉造屋敷大脱出計画】に加担していた親子の庭師に対する事後処理が、細川忠興とガラシャ珠子との考え方や判断が、まるで違っていた。
 領主として乱世を生きる忠興にとっては、生かしてはおけぬ存在は口封じに斬首する。そこが、今も珠子は恨めしく機嫌が悪くなる原因なのだ。

 殺生する必要はなか

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歴史小説「Two of Us」第4章J‐18

歴史小説「Two of Us」第4章J‐18

~細川忠興&ガラシャ珠子夫妻の生涯~
第4章 Foward to〈HINOKUNI〉Country

J‐18

 白百合と胡蝶蘭を調合した、アロマの香り。
 3名が過ごす奥の間の灯籠に落としたそのアロマは、伊達政宗自身が調合し、まだ丹波の水戸野に幽閉されていた頃の細川珠子に、家臣を通じて贈ったものと、同じ香りである。

 細川忠興とガラシャ珠子は、ポツポツと〈大坂の陣〉以降の『ふたり』を語り始め

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歴史小説「Two of Us」第4章J‐17

歴史小説「Two of Us」第4章J‐17

~細川忠興&ガラシャ珠子夫妻の生涯~
第4章 Foward to〈HINOKUNI〉Country

J‐17

 慶長20年、旧暦7月13日(1615年9月15日)。元和偃武(げんなえんぶ)。 〈偃武〉とは、武器を収納してしまう事。

 応仁の乱から約150年にわたって、日本国内に於いての群雄割拠や下克上の軍事衝突、つまり戦国時代が終結・収束した。

 江戸幕府は、朝廷に元号を改めるよう申請。『

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歴史小説「Two of Us」第4章J‐16

歴史小説「Two of Us」第4章J‐16

~細川忠興&ガラシャ珠子夫妻の生涯~
第4章 Foward to〈HINOKUNI〉Country

J‐16

 細川忠興の三男忠利は、細川軍本体から離れ、現在でいう天王寺駅付近で呆然自失して、身動きも出来ずに佇んでいた。

 そこが上方大坂の地である事も忘れて、目の前百尺(約30メートル)程先に仁王立ちして独りでまっすぐに睨みつけている男から、眼を反らせずにいる。剃髪したスキン・ヘッドの後ろか

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歴史小説「Two of Us」第4章J‐15

歴史小説「Two of Us」第4章J‐15

~細川忠興&ガラシャ珠子夫妻の生涯~
第4章 Foward to〈HINOKUNI〉Country

J‐15

 細川家臣が記したとされる「茶人四祖伝書」の中で、茶人細川三斎宗立について記された文言。
『細川忠興は天下一気が短い人で、反対に気が長い茶人は蒲生氏郷である』

 前述のとおり気が短いのは、持病の【癪】(しゃく)のせいだと云われる。短気で怒りっぽい人物を『癇癪持ち』と呼ぶ程、心因性の強

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