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歴史小説「Two of Us」第4章J‐26

割引あり

~細川忠興&ガラシャ珠子夫妻の生涯~

第4章 On A ”SABO Tea Room” About Some Last Scenes 


J‐26

 1638年、寛永拾伍年の卯月を迎えた。
 細川忠興の七拾四歳の誕生日(11月13日)までは、ガラシャ珠子は、たしかに八代城の忠興のそばに居て、歌詠みをしていた。

 その日、忠興は肥後藩熊本城本丸へ参内し、嫡男忠利が政務を行う参議の場に、同席。
 寛永拾伍年弐月末日まで続いた【島原・天草の一揆】の終結に伴い、近隣大名の改易(移封)についての報告や、熊本藩の今後の対応についてが主題だった。

 主だった紛争地域の、島原藩主松倉勝家は改易処分と成り、斬首された。江戸時代唯一の、切腹ではない処分である。
 天草諸島では、唐津藩飛び地の城主寺沢堅高も領地を没収され、精神異常を来して自害。寺沢家も断絶した。
 佐賀藩主鍋島勝茂も、閉門と謹慎処分を受けている。こうして主たる紛争地域の官軍側藩主は全て入れ替えられ、農民たちへの過酷な年貢加増の緩和に務める体制が、整えられた。

 一揆側は、老若男女37,000人全員が死亡し、紛争途中で長崎の小さな島々に逃げ延びた者だけが、脱出した故に【隠れキリシタン】として生き抜いた。現在の壱岐・対馬や軍艦島などに、子孫を残して行った。

 援軍の海運が間に合わなかったポルトガルは国交を断絶された。代わってヨーロッパとの貿易は、ネーデルランド(オランダ連邦共和国)のみ、幕府側が開始した。以後【黒船来航】まで、江戸幕府は、長崎出島では中華国と阿蘭陀(オランダ)以外は国交を完全封鎖した。

 痛み分けの制圧、と云うにはあまりにも壮絶な、荒んだ人災である。幕府側官軍も、8,000人の兵軍を失ったのだ。


島原半島の原城跡


 会合に参加の数日、忠興は花畑屋敷に滞在した後、隠居先の八代城に帰城すると、ガラシャ珠子の姿を見つける事が出来なかった。
 城内を隅々まで探し回り、八代の市中も家臣に捜索を指示したが、跡形も見つからないでいた。

 1640年誕生日(4月下旬、77歳)になっても、ガラシャ珠子はみつからなかった。
 既に肥後熊本には居なかったのだろうと、嫡男忠利も生存確認を諦めざるを得なかった。

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