本能寺の変1582 【重史65】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史065】 『信長公記』
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 目次中
1時代の風潮 2光秀の年齢と嫡男光慶 3光秀という男 4光秀の苦悩
5志向の相違 +信長の油断
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史065】 そ第158話⑨
平手中務は、借染にも、物毎に、花奢なる仁にて候ひし。
『信長公記』
天文十八年1549
信秀と清州の間に、和議が成立した。
この年、秋の終わり頃。
平手政秀の努力が、ようやく、実を結んだ。
清州織田氏との間に、和議が結ばれた。
翌年、秋の末、互いに屈睦(=譲歩)して無事(=和睦)なり。
政秀は、なかなかの風流人であったようである。
これを祝し、清須の宿老らへ送った書状の中に紀貫之の一首を添えた。
其の時、平手、
(清州の)大膳・甚介・河尻かたへ、和睦珍重の由侯て、書札を遣はし、
其の端書に古歌一首これあり。
袖ひぢて、結びし水のこほれるを、春立つけふの、風や解くらん*、
と候へつるを覚え候。
か様に、平手中務は、
借染(かりそめ)にも、物毎(事)に、花奢(風雅)なる仁にて候ひし。
(『信長公記』)
*袖を濡らして掬った水が凍ったのを、立春の今日の風が溶かす
のだろうか(「古今和歌集」紀貫之)。
⇒ 次へつづく
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