本能寺の変1852 その一因 一、光秀の年齢 そ小74④ 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
その一因 一、光秀の年齢 そ小74④
2光秀の年齢 4光秀、最大の敵 4/6
はじめに ←目次 ←その一因 目次大 目次中 一、光秀の年齢 ←
→重要 ◎目次
→重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次
→テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次
→【シリーズ】信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【 重要史料 】 【 人物 】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
そ小74④ そ第74話④
【参照】 ←テ第74話④ ←◎第74話 ←第74話
そして、五月十七日。
中国出陣命令。
四国出陣命令の、わずか十日後である。
信長は、毛利を滅ぼすつもりだった。
毛利は、武田の二の舞となる。
「中国の歴々討ち果たし」 【 重 史 021】『信長公記』
信長は、さらに九州を平定しようとしていた。
「九州まで一篇に仰せつけらるべきの旨」 【 重 史 021】『信長公記』
「天下布武」は、成る。
信長は、そう、思っていた。
光秀は、信長の志向をよく知っていた。
光秀は、出来る男。
信長の心の内をよく知っていた。
これに、気づかぬわけがない。
信長は、光秀に先陣を命じた。
「(惟任日向守) 、 先陣として出勢すべきの旨、仰せ出だされ」
【 重 史 021】『信長公記』
光秀の心は、重く沈んでいた。
石谷頼辰は、海の彼方。
光秀には、どうすることも出来なかった。
「間に合わぬやもしれぬ」、・・・・・。
不安が募る一方だった。
同日。
光秀は、準備のため坂本へ帰った 。
「五月十七日、惟任日向守、安土より坂本に至りて帰城仕り」
『信長公記』
中国攻めは、「天下布武」の総仕上げ。
総指揮官は、あくまでも信長自身。
秀吉では、ない。
秀吉は、毛利本軍を誘き出すのがその役目。
信長の華々しい勝利を御膳立てする係。
織田総軍の一翼を担う立場に過ぎない。
主役は、信長。
秀吉は、黒子。
目立たぬように、目立たぬように。
信長は、猜疑心が強い。
秀吉は、そのことを怖れていた。
それ故、秀吉には、これ以上の手柄が不要だった。
播磨・但馬・備前・因幡・淡路島。
正に、日の出の勢い。
目覚ましい活躍である。
そして、毛利本軍を備中に誘き出した。
となれば、いよいよ、信長の出番。
信長は、秀吉を救援するために、援軍を派したのではない。
秀吉は、備中。
毛利の本拠地は、安芸。
安芸に攻め込むために、軍勢を派したのである。
攻め口は、複数。
先の、甲斐攻めを見れば、そのことがよくわかる。
光秀は、信長の指揮下にあった。
別の一翼を担う立場である。
おそらく、毛利の本城、吉田郡山城を衝くための軍勢だったのでは
ないか・・・・・。
秀吉の、下につくのではない。
秀吉と対等の立場にあった。
これが史実。
このこと、明記しておく。
要注意!!
惑わされるべからず!!
従って、光秀は、信長から、屈辱的な命を下だされたのではない。
むしろ、その逆である。
光秀は、手柄を上げる機会を与えられたのである。
おそらく、それが、国替えの口実となる、・・・・・。
となれば、甲斐攻めにおける、滝川一益と同様の流れ。
光秀は、そのことを察知していた、・・・・・。
同、二十一日。
土佐、長宗我部元親が承諾した (「石谷家文書」) 。
光秀は、これを知らず。
石谷頼辰が帰国の途についた (「石谷家文書」) 。
光秀は、これも知らず。
同日。
「五月廿一日、家康公、御上洛 (安土から) 」 『信長公記』
同、二十六日。
光秀、亀山へ。
「五月廿六日、惟任日向守、中国へ出陣のため、
坂本を打ち立ち、丹波亀山の居城に至り参着」 『信長公記』
同、二十七日。
同、二十八日。
愛宕百韻。
頼辰、未だ、帰還せず。
「万事休す」
光秀は、追い込まれた。
同 二十九日。
信長、上洛。
六月一日。
中国出陣の日。
すなわち、運命の分かれ道。
同、二日未明。
「本能寺の変」
⇒ 次へつづく
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?