K.Narita

私は29歳の冬にやっちゃばの世界に足を踏み入れ、採用先には野菜博士が!未知の野菜に30…

K.Narita

私は29歳の冬にやっちゃばの世界に足を踏み入れ、採用先には野菜博士が!未知の野菜に30年以上関わり、日本に新野菜を広めた野菜博士の一代記を綴ります。

記事一覧

あの日あの時

大木健二の洋菜ものがたり 市場も人も転機・・・昭和10年代 パセリを刺身の妻に! 大根河岸から築地市場への引っ越しを記念する移転式典が行われたのは昭和10年2月…

K.Narita
6時間前
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あの日あの時

やっちゃば一代記 大木健二の洋菜ものがたり  鶏肉と洋菜 東京の洋菜問屋の元祖と言えるのが持丸本店、梅村屋、持倉です。当時、洋食で使われていた肉類は鶏肉と野鳥です…

K.Narita
4日前
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あの日あの時

やっちゃば一代記 大木健二の洋菜ものがたり  洋食新時代の幕開け 「スエヒロ」は忘れることのできないレストランです。 大阪商人の山根、千田、上島の三氏が新しい土地…

K.Narita
10日前
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あの日あの時

やっちゃば一代記 大木健二の洋菜ものがたり  ドンぶり勘定の河岸気質 当時 京橋の大根河岸にはそれぞれお抱えの山(産地)をもつ大問屋と、そこから買い付ける仲買がいて…

K.Narita
2週間前
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あの日あの時

やっちゃば一代記 大木健二の洋菜ものがたり  1.洋菜の黎明期(昭和初期) 大根河岸と銀座界隈  昭和10年前後の銀座界隈は大変な賑わいでした。京橋大根河岸があった…

K.Narita
3週間前
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やっちゃば一代記 思い出(30)

大木健二の洋菜ものがたり  ずんぐりもっくりの逞しさ失せる! マッシュルーム  フランスではシャンピニオン、日本ではつくり茸または馬糞茸と呼ばれています。和名はお…

K.Narita
1か月前
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やっちゃば一代記 思い出(29)

大木健二の洋菜ものがたり  男心くすぐる?ニューフェイス プティ・ベール  芽キャベツとケールを交配してできた純国産の新野菜ですね。 1991年11月に産声を上げて…

K.Narita
1か月前
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やっちゃば一代記 思い出(28)

大木健二の洋菜ものがたり  チーズとワインにピッタリ 生食ソラマメ(ファーべ)  在来のソラマメは16世紀に渡来し、いまや和食の膳、ビールのおつまみとして欠かせま…

K.Narita
1か月前
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やっちゃば一代記 思い出(27)

大木健二の洋菜ものがたり  命綱つないで採取 クレソン  戦前、三国園という関東屈指の生産者、というより採取家がいました。 唐草模様の風呂敷に柳行李(やなぎこおり)を…

K.Narita
1か月前
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やっちゃば一代記 思い出(26)

大木健二の洋菜ものがたり  玉レタスの攻勢でじり貧?! ローメインレタス  戦前、レタスといえばチシャ系のローメインレタスの琴でした。産地の八丈島から週一回、船便…

K.Narita
1か月前
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やっちゃば一代記 思い出(25)

大木健二の洋菜ものがたり  パリっ子の生活に浸透 パリジャンキャロット 名前も歴史もユニークなニンジンです。資料をひも解いてみるに、フランスの古(いにしえ)の家庭生…

K.Narita
1か月前
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やっちゃば一代記 思い出(24)

大木健二の洋菜ものがたり  戦時の配給物資 トッピーナンポ(キクイモ)  中国から復員(昭和21年)、市場に戻って間もない頃のことです。店の前を通りかかった人が「あれ…

K.Narita
1か月前
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やっちゃば一代記 思い出(23)

大木健二の洋菜ものがたり  なぜか細めは不人気 レホール  網走の小高い山に登った時、道端に野生のレホールがびっしり生えていました。北海道では、タコの足みたいにな…

K.Narita
1か月前
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やっちゃば一代記 思い出(22)

大木健二の洋菜ものがたり  普及の芽を摘まれる 芽キャベツ  大正末期から昭和の半ば(三十年代)まで青み野菜といえば芽キャベツでしたが、いまは絹サヤやインゲン豆にそ…

K.Narita
1か月前
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やっちゃば一代記 思い出(21)

大木健二の洋菜ものがたり  トレビッツの犠牲に! 湘南レッド  東京オリンピックのちょっと前の昭和37、8年でした。築地市場の卸売会社や小売商組合の関係者と、神奈…

K.Narita
1か月前
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やっちゃば一代記 思い出(20)

大木健二の洋菜ものがたり  ヨーロッパの山菜 アスペルジュ・ソバージュ  アスパラガスの野生種です。原産国のヨーロッパでは、野山で採集されたものが種です。出荷され…

K.Narita
1か月前
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あの日あの時

あの日あの時

大木健二の洋菜ものがたり

市場も人も転機・・・昭和10年代

パセリを刺身の妻に!
大根河岸から築地市場への引っ越しを記念する移転式典が行われたのは昭和10年2月11日。
京橋組と赤羽、神田からの新規募集組を加えた仲卸240軒の従業員らが参加し、楽隊を先頭に銀座通りを練り歩きました。ちょうど紀元節の日だったので、それはもう派手なものでした。
その翌年同じ日に勝鬨橋の開橋式があり、午前9時、正午、

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あの日あの時

あの日あの時

やっちゃば一代記 大木健二の洋菜ものがたり
 鶏肉と洋菜
東京の洋菜問屋の元祖と言えるのが持丸本店、梅村屋、持倉です。当時、洋食で使われていた肉類は鶏肉と野鳥です。梅村屋の小売部門、梅村屋鳥食肉店が西洋野菜を扱っていたことでも分かるように、鶏肉店が洋菜を扱うのは当たり前だったのです。神田青果市場では野鳥、鶏肉まで扱う青果仲卸が4,5軒あり、屋号に“鳥“の字を被せ、店の前には生きた鶏の入った鳥籠が幾

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あの日あの時

あの日あの時

やっちゃば一代記 大木健二の洋菜ものがたり
 洋食新時代の幕開け
「スエヒロ」は忘れることのできないレストランです。
大阪商人の山根、千田、上島の三氏が新しい土地で、新しいことを始めたのですから、当時としてはその発想と行動力はたいしたものです。
開店当初の銀座2丁目越後屋ビルの1号店(昭和9年開業)ではカウンターに10人くらいの客しかいなかったのに、5階と6階に移ってからは破竹の勢い
ランチはA・

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あの日あの時

あの日あの時

やっちゃば一代記 大木健二の洋菜ものがたり
 ドンぶり勘定の河岸気質
当時 京橋の大根河岸にはそれぞれお抱えの山(産地)をもつ大問屋と、そこから買い付ける仲買がいて、小売店に売ったり、料理屋に納めたりしていました。
荷主は主に牛車、大八車、船の三つの輸送手段で荷物を運びます。大問屋は京橋川の岸壁に満潮時の水位に合わせた船着き場を設けていたほか、陸の上には荷主のための休憩所や仮眠所を用意していました

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あの日あの時

あの日あの時

やっちゃば一代記 大木健二の洋菜ものがたり
 1.洋菜の黎明期(昭和初期)
大根河岸と銀座界隈
 昭和10年前後の銀座界隈は大変な賑わいでした。京橋大根河岸があった今の銀座1丁目付近から土橋の8丁目までの銀座通りは何百もの夜店が軒を連ね、人波でごった返しました。露店の棚に所狭しと並ぶベルト、ネクタイ
時計、ワイシャツなどに目を見張りながら、わたしも香具師の巧みな口上に聞き惚れたものですが、あまりの

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やっちゃば一代記 思い出(30)

やっちゃば一代記 思い出(30)

大木健二の洋菜ものがたり
 ずんぐりもっくりの逞しさ失せる!
マッシュルーム
 フランスではシャンピニオン、日本ではつくり茸または馬糞茸と呼ばれています。和名はおよそ飾り気がありませんが、栽培が人工的かつ馬糞を必要とする点で、こちらの方が生産実態に即した呼び方と言えるでしょう。
 日本で種菌を用いる栽培に初めて成功したのが大正11年です。
森本彦三郎というキノコつくりの名人によって生産方法が確立さ

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やっちゃば一代記 思い出(29)

やっちゃば一代記 思い出(29)

大木健二の洋菜ものがたり
 男心くすぐる?ニューフェイス
プティ・ベール
 芽キャベツとケールを交配してできた純国産の新野菜ですね。
1991年11月に産声を上げて以来、消滅寸前の芽キャベツに代わり、サラダや肉料理の付け合せとして定着しました。ただし、産地の移り変わりは激しいようです。最初は茨城、北海道、千葉県成田、浜松、磐田と移動し、長崎県唐津からも出荷がありました。
 芽キャベツの生産量が全国

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やっちゃば一代記 思い出(28)

やっちゃば一代記 思い出(28)

大木健二の洋菜ものがたり
 チーズとワインにピッタリ
生食ソラマメ(ファーべ)
 在来のソラマメは16世紀に渡来し、いまや和食の膳、ビールのおつまみとして欠かせませんが、生で食べる習慣はありませんでしたね。
 生食用は私が1991年にイタリアから取り寄せた種をソラマメの大産地鹿児島は指宿の生産者に委託して3年間栽培してもらいました。その後、栽培を中断した鹿児島県の他に適地はないかと、当たりをつけて

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やっちゃば一代記 思い出(27)

やっちゃば一代記 思い出(27)

大木健二の洋菜ものがたり
 命綱つないで採取
クレソン
 戦前、三国園という関東屈指の生産者、というより採取家がいました。
唐草模様の風呂敷に柳行李(やなぎこおり)を担いで、わたしが奉公していた持倉と梅村屋、持丸(すべて卸売業者) の三店をよく訪れてきました。店頭で必ず「おたの申します。」と挨拶する腰の低い人でしたが、クレソンの採る方法を聞くや、たまげました。採取場は多摩川の是政付近(現府中市)で

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やっちゃば一代記 思い出(26)

やっちゃば一代記 思い出(26)

大木健二の洋菜ものがたり
 玉レタスの攻勢でじり貧?!
ローメインレタス
 戦前、レタスといえばチシャ系のローメインレタスの琴でした。産地の八丈島から週一回、船便だけの入荷で、思惑買いの対象にもされました。海がシケると一気に品薄高となるので、市場の業者はお天気の加減を見ながら、冷蔵庫にしまって置きます。それで儲けたり、損したりしていたわけです。
また、当時の八丈島ではセロリ、パパイヤも作っていまし

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やっちゃば一代記 思い出(25)

やっちゃば一代記 思い出(25)

大木健二の洋菜ものがたり
 パリっ子の生活に浸透
パリジャンキャロット
名前も歴史もユニークなニンジンです。資料をひも解いてみるに、フランスの古(いにしえ)の家庭生活まで透かし見えてきます。
1390年、グッドマンという紳士が新婚家庭の奥さん向けに、家政に関わる書物を著わしています。グッドマンは蚤(のみ)の撃退法から、夫をベットに迎える方法まで、微に入り細をうがつ解説をしていますが、ニンジンについ

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やっちゃば一代記 思い出(24)

やっちゃば一代記 思い出(24)

大木健二の洋菜ものがたり
 戦時の配給物資
トッピーナンポ(キクイモ)
 中国から復員(昭和21年)、市場に戻って間もない頃のことです。店の前を通りかかった人が「あれ!、憾み骨髄のキクイモ(トッピーナンポの和名)
があるよ!。」と懐かしそうに近寄ってきました。戦時中、キクイモは配給物資として長野県などで大々的に栽培されていました。中国に5年間赴任していた私は、その頃の日本の食糧事情が良く分からない

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やっちゃば一代記 思い出(23)

やっちゃば一代記 思い出(23)

大木健二の洋菜ものがたり
 なぜか細めは不人気
レホール
 網走の小高い山に登った時、道端に野生のレホールがびっしり生えていました。北海道では、タコの足みたいになったレホールをすりおろし、醬油と合わせて、ご飯にかけて食べるそうです。ただし、栽培種はもっぱら粉ワサビの原料となり、生鮮品としては北海道以外への出荷はありませんでした。
それにしても、寿司や刺し身に使う本ワサビとはまったく違う品種なのに、

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やっちゃば一代記 思い出(22)

やっちゃば一代記 思い出(22)

大木健二の洋菜ものがたり
 普及の芽を摘まれる
芽キャベツ
 大正末期から昭和の半ば(三十年代)まで青み野菜といえば芽キャベツでしたが、いまは絹サヤやインゲン豆にその座を明け渡し、消えかかっています
落ち込んだ原因は明白です。栽培に手間がかかりすぎることと、調理が難しかったことです。
 芽キャベツは草丈が1メートルから1メートル半に伸び、その茎に40個から50個の芽がつく形で生育します。生産者は下

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やっちゃば一代記 思い出(21)

やっちゃば一代記 思い出(21)

大木健二の洋菜ものがたり
 トレビッツの犠牲に!
湘南レッド
 東京オリンピックのちょっと前の昭和37、8年でした。築地市場の卸売会社や小売商組合の関係者と、神奈川県農政部、生産者ら50人前後が丸の内のとあるレストランに集まりました。「赤タマネギ」の試食を兼ねた販売促進会議が開かれたのです。赤いタマネギは当時は非常に珍しく、わたしたちも強い関心を持っていました。大玉から小玉まで、茹でたり、煮たりし

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やっちゃば一代記 思い出(20)

やっちゃば一代記 思い出(20)

大木健二の洋菜ものがたり
 ヨーロッパの山菜
アスペルジュ・ソバージュ
 アスパラガスの野生種です。原産国のヨーロッパでは、野山で採集されたものが種です。出荷されます。時期になると、イタリアでは大束、小束様々な荷姿のアスパラソバージュで市場は所狭しの趣きとなります。さしずめ日本ならワラビのような山菜です。つくしんぼうに似た形で、茎から上はすべて食べられます。イタリアでは、大束は買ったその場で茎を少

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