K.Narita

私は29歳の冬にやっちゃばの世界に足を踏み入れ、採用先には野菜博士が!未知の野菜に30…

K.Narita

私は29歳の冬にやっちゃばの世界に足を踏み入れ、採用先には野菜博士が!未知の野菜に30年以上関わり、日本に新野菜を広めた野菜博士の一代記を綴ります。

記事一覧

やっちゃば一代記 思い出(10)

大木健二の洋菜ものがたり  胸わくわく、自慢の逸品 トレビッツ パリのランジス市場でランチを相伴したとき、スモークサーモンの下敷きにされていたのが〔トレビッツ〕で…

K.Narita
16時間前
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やっちゃば一代記 思い出(9)

大木健二の洋菜ものがたり  絶滅の危機 アーティチョーク  私が市場に勤め始めた昭和八年にはもう顔を出していました。 古くから国内生産されていた野菜です。異様な姿形…

K.Narita
1日前
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やっちゃば一代記 思い出(8)

大木健二の洋菜ものがたり  びっくり がっかりの輸入解禁 パプリカ  一ドル三百六十円の固定為替になる以前に訪れたパリのランジス市場で, 一目ぼれして以来ずっと、「…

K.Narita
4日前
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やっちゃば一代記 思い出(7)

大木健二の洋菜ものがたり  誤解 誤用 嬉しい誤算 ベルギーエシャロット らっきょうの若いのと混同されやすいので、〔ベルギーエシャロット〕と名づけて販売しているの…

K.Narita
5日前
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やっちゃば一代記 思い出(6)

大木健二の洋菜ものがたり  貰いそびれた勲章 【アンディーブ】 ベルギーではブリュッセル、ルーベン、メルヘンが夢の三角地帯と呼ばれています。さしずめ日本なら最高級…

K.Narita
6日前
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やっちゃば一代記 思い出(5)

大木健二の洋菜ものがたり  危うく焼却処分 【ズッキー二】(ウリ科) 初輸入のあと、またたく間に普及したのが【ズッキーニ】です。 品種を登録しておけば一財産残せたの…

K.Narita
7日前
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やっちゃば一代記 思い出(4)

大木健二の洋菜ものがたり  マコモ=茭白(ジャオパイ) 輸入野菜の第1号はマコモ(真菰)でした。戦時中、中国で「マコモ三昧」の生活を強いられてきたので思い入れが深く、…

K.Narita
12日前
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やっちゃば一代記 思い出(3)

大木健二の洋菜ものがたり  ビーツ 個人的に「根菜類を絶やすな運動」をしていました。 戦前はよく出回っていたのに、いまでは姿を絶やしてしまうやもしれない サルシフィ…

K.Narita
13日前
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やっちゃば一代記 思い出(2)

大木健二の洋菜ものがたり  洋菜事始め 日本原産の野菜はウド、セリ、フキ、ミツバ、ワサビ、アサツキ、アシタバ ジュンサイ、ハマボウフウなどにとどまり、現存する野菜…

K.Narita
2週間前
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やっちゃば一代記 思い出(1)

大木健二の洋菜ものがたり  野菜生産の変革期 終戦直後の進駐軍上陸は、日本の野菜つくりにも一大変革をもたらしました納入先の座間基地で、たまたま女性将校の食事に出さ…

K.Narita
2週間前
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やっちゃば一代記 実録(49)大木健二伝

やっちゃばの風雲児 大木健二の伝記  マコモに抱いた夢 マコモの国内栽培。大木がマコモに抱いた夢である。マコモが中華料理で頻繁に使われるようになると、役所も重い腰…

K.Narita
2週間前
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やっちゃば一代記 実録(48)大木健二伝

やっちゃばの風雲児 大木健二の伝記  台湾からマコモを 次のマコモの課題は青みの部分のない白みだけの上海産に代わるものをどうして手に入れるかである。そして、台湾産…

K.Narita
2週間前
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やっちゃば一代記 実録(47)大木健二伝

やっちゃばの風雲児 大木健二の伝記  問題また問題が・・ 「なんだい、大木さんとこは黴の生えた【マコモ】を売りつけるのかい! どうしてくれるんだ。!」 取引先の中華…

K.Narita
3週間前
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やっちゃば一代記 実録(46)大木健二伝

やっちゃばの風雲児 大木健二の伝記  マコモの輸入 オリンピックできれいに舗装された国道二四六号線、通称青山通りを渋谷に向かって、赤坂見附を過ぎたちょっと先が豊川…

K.Narita
3週間前
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やっちゃば一代記 実録(45)大木健二伝

やっちゃばの風雲児 大木健二の伝記  採用試験 領事館警察の採用試験は難関だった。受験者は旧制高校上がりのエリートばかりで、高等小学校止まりの大木はさすがにひるん…

K.Narita
3週間前
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やっちゃば一代記 実録(44)大木健二伝

やっちゃばの風雲児 大木健二の伝記  マコモ 大木が輸入野菜に手を染めたのはオリンピックの頃だ。 最初に思いついたのが中国料理に使う【マコモ】である。 戦時中、赴任…

K.Narita
3週間前
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やっちゃば一代記 思い出(10)

やっちゃば一代記 思い出(10)

大木健二の洋菜ものがたり
 胸わくわく、自慢の逸品
トレビッツ
パリのランジス市場でランチを相伴したとき、スモークサーモンの下敷きにされていたのが〔トレビッツ〕です。オリーブオイルと香辛料がよく効いていたこともあってこれは【大人の味。日本で売れる野菜】と確信、さっそく同業者三人と畑や冷蔵庫を見学したり、輸送方法を研究してみたりしました
そして昭和五十六年十月三十一日、わずか七ケースとはいえ、日本初

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やっちゃば一代記 思い出(9)

やっちゃば一代記 思い出(9)

大木健二の洋菜ものがたり
 絶滅の危機
アーティチョーク
 私が市場に勤め始めた昭和八年にはもう顔を出していました。
古くから国内生産されていた野菜です。異様な姿形にくわえて出回る時期が二ヵ月くらいに限られていたため、人目に触れる機会も少なかったのです。
また、バカの一つ覚えみたいに、茹でたあとドレッシングかマヨネーズでしか食べられてこなかったので、いまだに普及していません。
 市場で初めて業務用

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やっちゃば一代記 思い出(8)

やっちゃば一代記 思い出(8)

大木健二の洋菜ものがたり
 びっくり がっかりの輸入解禁
パプリカ
 一ドル三百六十円の固定為替になる以前に訪れたパリのランジス市場で,
一目ぼれして以来ずっと、「いつか日本で作り、売ってみたい!。」と想いを募らせていたのが〔パプリカ〕です。
 そこで昭和五十七年三月十九日、黄と緑の種子をオランダから初輸入。
種代は黄が百グラム二十七万九千七百八十円、緑が七万九千七百二十九円と目茶苦茶に高い値段で

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やっちゃば一代記 思い出(7)

やっちゃば一代記 思い出(7)

大木健二の洋菜ものがたり
 誤解 誤用 嬉しい誤算
ベルギーエシャロット
らっきょうの若いのと混同されやすいので、〔ベルギーエシャロット〕と名づけて販売しているのがフランス生まれのシャロットです。
一般の小売店や一杯飲み屋の付け合わせに出されるエシャレットとは全く違います。ただし、こちらは卸売市場のセリ人が勝手に命名したもので、ずっと古株なんですよ。
私がベルギーエシャロットを初めて輸入した時期は

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やっちゃば一代記 思い出(6)

やっちゃば一代記 思い出(6)

大木健二の洋菜ものがたり
 貰いそびれた勲章
【アンディーブ】
ベルギーではブリュッセル、ルーベン、メルヘンが夢の三角地帯と呼ばれています。さしずめ日本なら最高級の松茸が採れる京都かな!?
野菜栽培に打ってつけの地方です。ここで栽培されるアンディーブは水洗いしなくても、叩くだけで砂を落とせます。
昭和四十九年十月、十ケース(四十五キロ)を初めて日本に持ち込みました。最初は売れなくて、売れなくて、店

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やっちゃば一代記 思い出(5)

やっちゃば一代記 思い出(5)

大木健二の洋菜ものがたり
 危うく焼却処分
【ズッキー二】(ウリ科)
初輸入のあと、またたく間に普及したのが【ズッキーニ】です。
品種を登録しておけば一財産残せたのではと、今となってはちょっと悔いが残ります。
昭和五十二年九月、米国産野菜の第一号として他の十二種といっしょに十五ケース(百五十キロ)を輸入しました。けれど、当時はこの【ズッキーニ】がどういう野菜なのか、ホントのところ分かってなかったの

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やっちゃば一代記 思い出(4)

やっちゃば一代記 思い出(4)

大木健二の洋菜ものがたり
 マコモ=茭白(ジャオパイ)
輸入野菜の第1号はマコモ(真菰)でした。戦時中、中国で「マコモ三昧」の生活を強いられてきたので思い入れが深く、日中貿易がスタートした昭和三十年代後半にすぐに取り組んだのです。
上海の人民公社が送ってきたのは青みの部分が切り落とされたものばかりで「大木は悩みもの(売りにくい商品の意味)を買ってきた!」と周辺からは避難轟々。二度目も青いところを切

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やっちゃば一代記 思い出(3)

やっちゃば一代記 思い出(3)

大木健二の洋菜ものがたり
 ビーツ
個人的に「根菜類を絶やすな運動」をしていました。
戦前はよく出回っていたのに、いまでは姿を絶やしてしまうやもしれない
サルシフィー、パースニップ、ルタバガ、トッピーナンポ、ビーツの五種類を特に選び、自前の情報誌を送って、得意先の二百五十軒に消費拡大を訴えていました。この五種類は進駐軍上陸よりずっと前の明治時代から栽培されている洋菜ですが、戦後は需要がなくなり、生

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やっちゃば一代記 思い出(2)

やっちゃば一代記 思い出(2)

大木健二の洋菜ものがたり
 洋菜事始め
日本原産の野菜はウド、セリ、フキ、ミツバ、ワサビ、アサツキ、アシタバ
ジュンサイ、ハマボウフウなどにとどまり、現存する野菜の大半は外国種です。外国産が渡来した時期は、1に奈良・平安時代以前。2に室町時代から江戸時代初期。3に幕末以降明治初年と3期とされていますね。
まず中国大陸からミョウガ、ショウガ、ナス、キュウリ、サトイモ、ネギ、ダイコンが渡来。南蛮船によ

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やっちゃば一代記 思い出(1)

やっちゃば一代記 思い出(1)

大木健二の洋菜ものがたり
 野菜生産の変革期
終戦直後の進駐軍上陸は、日本の野菜つくりにも一大変革をもたらしました納入先の座間基地で、たまたま女性将校の食事に出されたレタスからミミズが這い出し、机を叩いて怒った将校から「出入り禁止」の最後通牒をもらったことがあります。当時の日本は有機栽培が普通で、畑に虫はつきものでした。運悪く、獲り入れ前に降った雨を避けようとしたミミズがレタスの中に逃げ込んだらし

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やっちゃば一代記 実録(49)大木健二伝

やっちゃば一代記 実録(49)大木健二伝

やっちゃばの風雲児 大木健二の伝記
 マコモに抱いた夢
マコモの国内栽培。大木がマコモに抱いた夢である。マコモが中華料理で頻繁に使われるようになると、役所も重い腰を上げた。農林省(現農水省)がマコモの栽培を推奨したのである。大木もこれに便乗、静岡県での試験栽培に加わった。マコモを植えたのは浜松付近の鰻の養殖地。温暖な気候、豊富な水と栽培条件はよさそうに見えた実際、マコモの生育は素晴らしかった。
 

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やっちゃば一代記 実録(48)大木健二伝

やっちゃば一代記 実録(48)大木健二伝

やっちゃばの風雲児 大木健二の伝記
 台湾からマコモを
次のマコモの課題は青みの部分のない白みだけの上海産に代わるものをどうして手に入れるかである。そして、台湾産を手にしたとき、上海産とはすっぱり見切りをつけることができた。台湾産は青みと白みのバランスが見事で、値段も手ごろだった。早速、数十キロ分を輸入、納め先の評判も上々だった。大木の胸にわだかまっていたものの一つはすっーと消えていった。
だが、

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やっちゃば一代記 実録(47)大木健二伝

やっちゃば一代記 実録(47)大木健二伝

やっちゃばの風雲児 大木健二の伝記
 問題また問題が・・
「なんだい、大木さんとこは黴の生えた【マコモ】を売りつけるのかい!
どうしてくれるんだ。!」
取引先の中華料理人が血相を変えて怒鳴りつけた。
【マコモ】の表面に黒黴のような斑点が浮き出ていたのだ。
何とも因果な野菜だと大木は臍をかんだ。思い出深い、愛着のある野菜なのに、それはことごとく大木を裏切るような気がしてきた。
斑点のない【マコモ】を

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やっちゃば一代記 実録(46)大木健二伝

やっちゃば一代記 実録(46)大木健二伝

やっちゃばの風雲児 大木健二の伝記
 マコモの輸入
オリンピックできれいに舗装された国道二四六号線、通称青山通りを渋谷に向かって、赤坂見附を過ぎたちょっと先が豊川稲荷である。大木は豊川稲荷の近くという上海に本店を置く中国商社のドアを叩いた。
十数年ぶりとはいえ、大木の北京語は錆びついてはいなかった。
話は早かった。上海から【マコモ】を買い付ける商談はすぐにまとまった。この【マコモ】が大木の初めて手

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やっちゃば一代記 実録(45)大木健二伝

やっちゃば一代記 実録(45)大木健二伝

やっちゃばの風雲児 大木健二の伝記
 採用試験
領事館警察の採用試験は難関だった。受験者は旧制高校上がりのエリートばかりで、高等小学校止まりの大木はさすがにひるんだ。しかし、試験は作文中心で、『日本語で勝負するんだったら勝ち目はある!』と、市場の仕事に費やしてきた以上の時間を作文の練習に注ぎ込んだ。それでなんとか合格したが、こんどは学歴コンプレックスに悩まされた。学卒の同輩から表立って蔑視されるこ

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やっちゃば一代記 実録(44)大木健二伝

やっちゃば一代記 実録(44)大木健二伝

やっちゃばの風雲児 大木健二の伝記
 マコモ
大木が輸入野菜に手を染めたのはオリンピックの頃だ。
最初に思いついたのが中国料理に使う【マコモ】である。
戦時中、赴任していた上海周辺の沼地に密生していて、食卓にもよく上った野菜である。現地ではあまりにあふれていて、中国人の給仕が「市場で買ってきました。」と言っては、しょっちゅう食べさせられたが、それが実は沼から引き抜いてきた【マコモ】で「買ってきまし

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