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あの日あの時

やっちゃば一代記 大木健二の洋菜ものがたり
 1.洋菜の黎明期(昭和初期)
大根河岸と銀座界隈
 昭和10年前後の銀座界隈は大変な賑わいでした。京橋大根河岸があった今の銀座1丁目付近から土橋の8丁目までの銀座通りは何百もの夜店が軒を連ね、人波でごった返しました。露店の棚に所狭しと並ぶベルト、ネクタイ
時計、ワイシャツなどに目を見張りながら、わたしも香具師の巧みな口上に聞き惚れたものですが、あまりの混雑に地元商店会と露店連合会との間で、夜店の撤退論争が繰り広げられたほどです。この論争も大戦でうやむやになってしまいましたが・・・・・・・。
夜店のネクタイは1本20銭か30銭。わたしの初任給は20円だったから
まだまだ手を出しづらい値段でした。コーヒーはパンがついて20銭か30銭。1杯10銭のラーメン屋もありました。低い鼻でも麺がくっつくくらい大盛で、腹を空かした若い人たちがドンぶりに顔を突っ込んでいた様子が目に浮かんできます。
街中に流れていたのが『かんかん虫の唄』カフェーで流行り、自然と人の口の端に上るようになって、朝から晩まで誰もが一度は口ずさむほどはやり唄でした。どんな虫かは分かりませんが、歌い出しは「かんかん虫はかわいいね。」だったと思います。
銀座で最も高級なカフェーが『クロネコ』。銀座2丁目の越後屋ビルあたりにあって、ト音記号模ったネオンサインに電飾光が下から上に這い上がる様子を見ては、一晩に5000円、6000円といった大金が飛び交ったというのですから、わたしらにはほど遠い世界でもあったのです。
大根河岸に働いていた若い者の楽しみのひとつが銭湯通いです。銭湯は銀座にも数多くありましたが、よりによって河岸から一番遠い7丁目の大黒湯が贔屓にされたのです。というのも、番台に座る女性が大変色っぽかったからで、その女性が当番の日には、下駄ばきで手ぬぐいを肩にして銀座通りをカラコロ歩く大根河岸の若い衆の姿が見られました。
当時、和食の著名店といえば、銀座6丁目にあった松本樓です。黒塀に囲まれた格式高い店で、野菜を納めていたわたしも随分気を遣った記憶があります。主人は代議士にもなった小坂梅吉という人でした。ここが日比谷に移転するとき、巷を揺るがす騒ぎが起こりました。工事で掘り返していたとき小判が出たのです。新聞で報道されるや、東雲(江東区)の残土を捨てた場所に人々が殺到、会社を休んで探しに行く者もいました。国際的に風雲急を告げる時代だったのに、世間は意外にのんびりしていました。

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