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やっちゃば一代記 思い出(30)

大木健二の洋菜ものがたり
 ずんぐりもっくりの逞しさ失せる!
マッシュルーム
 フランスではシャンピニオン、日本ではつくり茸または馬糞茸と呼ばれています。和名はおよそ飾り気がありませんが、栽培が人工的かつ馬糞を必要とする点で、こちらの方が生産実態に即した呼び方と言えるでしょう。
 日本で種菌を用いる栽培に初めて成功したのが大正11年です。
森本彦三郎というキノコつくりの名人によって生産方法が確立されましたが本格的な生産、販売は戦後になってからです。その戦後マッシュルーム産業の幕開けに関わることができたのは、わたしの洋菜商いにとっては画期的なことでありました。終戦から1,2年して土浦の海軍基地跡あった防空壕を借り、知り合いの韓国人と組んで栽培を始めました。近くに厩舎も沢山あり栽培条件は揃っていました。それまでマッシュルームといえば、すべて正味2キロ入れの木箱でしたが、わたしはこれを200gの小箱で出荷したのですその頃のホテル、レストランにとって、2キロ箱では量が多すぎる場合が少なくなかったからなんです。出荷を始めるやお客が飛びついてきました。
しかし、栽培はきわめてデリケートで、ひどく神経を使いました。
当時マッシュルームを作るときの目安が、〝一寸一貫目〟(4キロ弱)。
普通なら一寸の厚さの菌床で、一坪当たり一貫目(4キロ弱)のマッシュルームを収穫できるというものです。つまりはこの程度を収穫できないと採算が合わないのですね。そしてキノコの出来不出来を左右したのが菌床です。
馬糞の混じった藁を敷き、よく醗酵させてから無菌にした黒土をかぶせます
この菌床をどの程度厚くするかがポイントとなります。さらに消毒したピンセットで種菌を丁寧に移植していきます。この際、雑菌はご法度ですから、関係者以外は出入り禁止!わたしも菌舎に不用意に入ろうとして現場の人に怒られたものです。雑菌が入ったかどうかは、できたキノコが黒くなっているか、そうでないかで分かります。冬場、醗酵にともなう発熱で菌舎のなかは白煙がもうもうと立ち込めていました。
 土浦を切り上げた後、昭和25年に河野一郎さん(元代議士、もちろん故人)が経営していた日本食糧という会社に依頼して、栃木県の大谷石の廃坑を利用して2度目の栽培を始めました。ここで栽培した製品は私が一手販売し、そののち3年間は”シャンピニオンの大木”と奉られたのですが、半面、落盤事故にも遭遇し、冷っとさせれられたこともありましたね。
 マッシュルーム栽培に転機が訪れたのは菌床に人口堆肥(コンポスト)が使われるようになってからですよ。軍馬が減って厩舎の敷き藁が手に入りにくくなったこともあり、化学成分が使われるようになったのです。馬糞の代わりに尿素、硫安、炭酸カルシウム、消石灰、過燐酸などを稲わらに伏せ込んで醗酵させる方法です。また稲わら自体も機械で刈るようになってから丈が短くなりましたね。このために菌床に力がなくなり、収量がガクンと落ち込みました。馬糞入りの敷き藁でできたキノコはずんぐりもっくりとして、いかにもたくましく、日持ちもするのです。うまく栽培できた時はキノコが連なって生育しますが、人工堆肥を使ったマッシュルームにはそれが見られません。たくましいと言えば、かつてはブラウン系のマッシュルームも栽培されていました。全体の2割程度でしたが、日持ちがよいのが取り柄でそれなりの人気がありましたね。ただ、アクが強いために、いまではホワイトが全盛と言えますよね。
 ※マッシュルーム
17世紀末頃、フランスで厩肥を利用して栽培されたのがマッシュルームのルーツです。日本では明治初年東京で試験的に栽培されましたが、商品化までに至らなかったようです。野生種は現存せず、自然界にみられたとしても、それは栽培種の胞子はが飛散し、自生したものとみてよいでしょう。
 戦後、洋食が広まるのに応じて需要が拡大し、いまでは一般家庭でも日常的に食べられるようになりましたね。サラダ、バター炒め、スープ、クリーム和え、煮込み、オムレツなど用途が広いことも人気の理由でしょう。

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