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あの日あの時

大木健二の洋菜ものがたり

市場も人も転機・・・昭和10年代

パセリを刺身の妻に!
大根河岸から築地市場への引っ越しを記念する移転式典が行われたのは昭和10年2月11日。
京橋組と赤羽、神田からの新規募集組を加えた仲卸240軒の従業員らが参加し、楽隊を先頭に銀座通りを練り歩きました。ちょうど紀元節の日だったので、それはもう派手なものでした。
その翌年同じ日に勝鬨橋の開橋式があり、午前9時、正午、午後3時の橋が開く時間になると、見物客で膨れ上がり、若い私は人波から押し出されてしまったものです。この勝鬨橋の完成で月島と銀座を結ぶ市電も開通し、築地界隈は一躍、世間から注目されるようになりました。
そして、仕事の上で深く印象に残っているのが、数年前からすでに開業していた魚河岸(鮮魚、川魚)と隣り合わせで営業できるようになったことです。
 パセリはトンカツやカツレツにちょっと使われる程度でした。
わたしはパセリを刺身の「つま」に使ってもらおうと、大根河岸の頃から単身にて、リヤカーに三寸ニンジン(西洋ニンジン)ともども満載し、築地魚河岸の「つま物」問屋を口説いて回っていたのです。だから、築地への移転は「水を得た魚」みたいなもの。
一人で得意先30軒を開拓し、多い日には50箱(一箱50把入り)は売ったものです。
このパセリの売れ行きと呼応するように、ヒラメのような白身の魚には三寸ニンジン、マグロのような赤身の魚にはダイコン(カツラ剥き)という取り合わせが食生活に浸透していきました。それまでは刺身の妻野菜はせいぜい
「ぼうふう」、それも高値でしたから、こうした刺身用妻野菜の普及ぶりには目を見張らされました。
ただ、そのパセリも昨今は「立ちカツラ」(妻野菜)に代わりつつありますね
というのも、日持ちがパセリの2日に対し、この「立ちカツラ」は1週間と長いからです。まさに隔世の感です。
当時、築地の洋菜問屋は4軒。パセリや三寸ニンジンはその洋菜問屋だけが扱っていました。もちろん法律の上では何を扱っても構わないのですが、
“餅は餅屋に”といいますか、互いの領分を侵さないという不文律があって、それぞれの専門問屋として成り立っていけたのです。余談ですが、いまでは
何でも扱う百貨店あるいは八百屋的仲卸でないとやっていけなくなってきました。
わたしは当時まだ20歳そこそこの若僧でしたが、店の主人の出勤が遅れると、主人の帽子(参加章)を借りてセリ台に何度も立ちました。
わたしは「軽くて値の張る野菜を競り落とすのだから、他の仲卸と違う」という自負がありました。百戦錬磨のおやじさん連中を尻目に、高い品物をどんどん競り落としていくわけです。痛快でした。しかし、そんな生意気ぶりが禍したのでしょうか、セリ人参加の資格が無いことがバレて、仲卸組合と役所から2度だけお目玉を頂戴しました。
※専門問屋
水産物と同様に青果物問屋も扱い商品ごとに専業化していました。八百屋、魚屋といった小売店を除くと、勤め先が専業化していたのです。
 「やっちゃば伝」(神田川塞翁著)によると、昭和2年の東京市内の飲食店は、和食は①蕎麦屋1,568軒 ②汁粉、餅屋1,504軒 ③おでん屋945軒 
④寿司屋895軒 ⑤てんぷらや459軒の順、洋食は①西洋料理1,619軒 ②喫茶店881軒 ③ラーメン店441軒で、特に西洋料理店が「5年前の3割増。
キャベツ、チシャレタス、クレソン、パセリ、オニオンの納が急増」と、記しています。和食で最も店舗数の多い蕎麦屋を対象とした専門問屋はネギ専門問屋。東京では千葉県松戸のネギの人気が特に高く、一大集散市場だった千住河岸周辺の問屋が成立。いまでも数軒がネギ問屋の看板を掲げていますね。

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