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やっちゃば一代記 思い出(27)

大木健二の洋菜ものがたり
 命綱つないで採取
クレソン
 戦前、三国園という関東屈指の生産者、というより採取家がいました。
唐草模様の風呂敷に柳行李(やなぎこおり)を担いで、わたしが奉公していた持倉と梅村屋、持丸(すべて卸売業者) の三店をよく訪れてきました。店頭で必ず「おたの申します。」と挨拶する腰の低い人でしたが、クレソンの採る方法を聞くや、たまげました。採取場は多摩川の是政付近(現府中市)で、まだ河川が整備されていない時代ですから、かなりの難所です。
奥さんが握る命綱を腰に巻き付けて深みに入って採ってくるというのです。多い時でも80把から100把、大水のときは入荷もしませんから、大変に貴重な野菜だったわけです。
しかし、昭和9年、銀座のスエヒロが開業したのを境に、クレソンは大量消費時代へと様変わりします。
 山根仁太郎(のちに石原性)、千田吉蔵、上島孝(たかす)の三氏が共同して銀座2丁目に東京で初の牛ステーキ専門店、スエヒロを出店。
わたしはそこに野菜を納める傍ら、ジャガイモのカットやスープの下ごしらえの手伝いをさせられました。
勤務時間の3分の1はスエヒロに居て、クレソンについてもたっぷり勉強させてもらいました。当時、クレソンは毒消しの野菜、ステーキ1切れにつき1本、10切れなら10本といった割合で必ず使われていました。
戦後の一時期、クレソンが品薄になり、沖縄に飛んで栽培地を物色しました。名護市の市営ダムの下に手頃な水たまりを見つけたのですが、ハブが良く出るので、中途で諦めたこともあります。
今では人工栽培(水耕)による大量供給が実現していますね、いつでも、どこでも手に入るようになっていますね。半面、クレソンそのものは、茎を真っ黒にして寒さに耐える天然固有のたくましさが失せてしまいましたね。
 ※クレソン
記録には明治初めに導入されたとありますが、江戸時代、船員の食用としてオランダ船の船内で水槽栽培されていたクレソンの一部が持ち込まれているという。それがいまは野生化して全国に分布しているようです。水質、気温の関係で東北地方の品質が高いとされています。

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