天正19年(1591)12月28日は秀吉が関白を甥の豊臣秀次に譲り太閤を称した日。この年の秀吉は弟秀長と3歳の実子・鶴松を相次いで亡くしており秀次を後継者にした。秀次は関白として聚楽第で政務を執ることになった。しかし実権は秀吉が持ったままであり2年後に秀頼が生まれることになる。
元亀3年(1572)10月20日は将軍足利義晴の侍医だった吉田宗桂が亡くなった日。1539年には明に渡り医術を学び、1547年に再び明に渡った際には皇帝世宗に薬を献じ明でも有名となった。長男は豪商として知られる角倉了以であり、医業を継いだ次男宗恂は豊臣秀次や徳川家康にも近仕した。
天正12年(1584)4月6日は小牧で家康・織田信雄と対峙していた秀吉が三河に向けて別動隊を出した日。羽柴秀次を総大将に池田恒興、森長可、堀秀政を擁した三河奇襲作戦。これを察知した徳川軍が翌日夜ひそかに小牧山を出て長久手合戦が始まる。先に動くことが吉と出るか凶と出るか難しいです。
天正18年(1590)3月29日は豊臣秀次軍が小田原北条氏の支城・伊豆山中城を攻略した日。これにより秀吉は箱根に進みいよいよ小田原城の攻囲が始まる。現在も畝堀や障子堀が綺麗に残る城。優れた築城術も城兵3千に対し豊臣軍約7万と圧倒する数を揃えると半日で落城してしまうものなのですね。