月岡芳年コレクター

月岡芳年だけ集めています、備忘メモ。国際浮世絵学会員。 画像の無断利用はご遠慮下さいま…

月岡芳年コレクター

月岡芳年だけ集めています、備忘メモ。国際浮世絵学会員。 画像の無断利用はご遠慮下さいませ。 https://medium.com/@hiro_ukiyoe

マガジン

  • 西南戦争錦絵

    西南戦争(1877年)の錦絵。鮮やかな色彩で戦争の様子を描き、庶民にとって貴重な時事情報源となった。当時の社会情勢や大衆芸術を知る重要な歴史資料とされる。

  • 書籍

    浮世絵書籍

  • 大日本名将鑑

    大日本名将鑑 だいにほんめいしょうかがみ 全51作。

  • 芳年武者无類

    芳年武者无類

  • 魁題百撰相

    明治元年(1868)5月、戊辰戦争の流れで旧幕府軍(彰義隊)と新政府軍が衝突した上野戦争に想を得て制作されたのが魁題百撰相である。本作品南北朝時代から江戸時代初期までの歴史上の人物を描いた図譜のように見えるが、実際は、彰義隊員を過去の英雄に仮託した報道画としての側面を持っていた。芳年は実際に上野戦争の現場を訪れて写生を行い、その生々しい光景を作品に反映させた。 この取り組みは従来の浮世絵の枠を超え、芳年独自の歴史画・報道画という新しいジャンルを切り開き芳年の名を上げる機会となった。『魁題百撰相』は、芸術性と同時代性を兼ね備えた作品として、日本美術史上重要な位置を占めている。

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月百姿 心観月 手友梅

盲目の戦国武将・手友梅(てのゆうばい)は、背中の指物には竹の短冊で歌を掲げた。備中国吉城では、毛利の軍勢に多勢に無勢で戦い討ち取られた。皆がかつてない盲人と涙を流したという。芳年は歴史に消えた無名の士に光を当てた人だった(小早川に滅ぼされた三村家の人間か)、目録では読み違えて平友梅とされている。 暗きより 暗き道にも迷はじな 心の月のくもりなければ 和泉式部の有名な和歌「暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき はるかに照らせ 山の端の月」から本歌取りしつつ、心の月という内面的表

    • 鹿児島暴徒肖像略伝

      明治政府に反旗を翻し西南戦争に臨んだ薩軍の幹部9名が描かれている。右から池上四郎、桐野利秋、淵辺高照、西郷小平、西郷隆盛、村田新八、町田啓次郎、前原一格、篠原国幹だ。背景の旗の「新政厚徳」は万民に平等な新政治を意味し、明治新政府への不満を表すために薩軍が使用したとされる(出典)。 西南戦争錦絵は概して薩軍に好意的で、判官贔屓の国民性と明治新政府への反発が理由だった。本作の構図は、仏教画の流れを汲んだ江戸期浮世絵の武田24将図から採用しており、武者絵の流れをくむ。幹部の装いは

      • 西郷隆盛切腹図

        史実では、西南戦争の終盤、西郷隆盛は城山から降りて銃弾を受け、別府晋介に「晋どん、もうここらでよかが」と言い、襟を正して正座し東を向いて深く奉拝し、別府の介錯で切腹したと伝わる(出典)。明治期には写真技術が十分普及していなかったため、東京の浮世絵師は伝聞情報を基に描いた。本錦絵では実際にはなかった船上での最期の場面が描かれた、西郷たちは遠くに見える官軍の船を見つめていたのかもしれない。 西南戦争錦絵は、戦争画として作品数が圧倒的に多いものの、時事性を重視し、武者絵から同じ描

        • 錦絵 幕末明治の歴史

          全12冊、黒船来航から日露戦争・明治天皇大葬までを描いた錦絵を紹介する1977年に講談社から出版されたシリーズ図鑑。著者の小西四郎先生(1912年7月14日 - 1996年2月5日)は、幕末史を専門とする歴史学者、東京大学名誉教授。 中身は幕末の歴史書+当時の錦絵解説書、各巻で100作以上の幕末錦絵がカラーで掲載されている、この7割が今の浅井コレクションらしい(出典)。量と質ともに大変優れていて資料的価値も非常に高い。

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        月百姿 心観月 手友梅

        マガジン

        • 西南戦争錦絵
          2本
        • 書籍
          9本
        • 大日本名将鑑
          10本
        • 芳年武者无類
          2本
        • 魁題百撰相
          1本
        • 月百姿
          10本

        記事

          月岡芳年展 最後の天才浮世絵師 没後百年記念

          平成4年に大丸ミュージアム梅田で開催された展覧会の図録。

          月岡芳年展 最後の天才浮世絵師 没後百年記念

          大日本名将鑑 左馬頭義朝 長田荘司景宗

          頼朝や義経の父・源義朝は東国で勢力を伸ばし、京へ再び戻って下野守に任じられた。東国武士団を率いて保元の乱(1156年)で戦功を挙げ、左馬頭に任じられるが、平治の乱(1159年)で敗北して都を落ち延びた。尾張国知多郡内海へ着いた義朝の一行5名は、親戚である長田忠致(おさだただむね、長田荘司とも)の屋敷にかくまわれた。しかし、長田忠致は子の景致(景宗)と共に義朝を討ち取ることに決め、1160年正月三日に一行に酒を飲ませて郎党に湯屋で襲わせた。享年三十八歳、義朝は生涯を閉じた。

          大日本名将鑑 左馬頭義朝 長田荘司景宗

          芳年武者无類 野見宿弥 当麻蹴速

          宿禰と蹴速は国技相撲の始祖とされる。古墳時代の出雲国の豪族・野見宿禰(宿祢)は勇士として名高かった。一方、大和国の当麻邑に住む当麻蹴速(當麻蹴速(たいまのけはや))も強さを誇り、生死を賭けた勝負を求めていた。これを耳にした第十一代垂仁天皇は野見宿禰を召し寄せ、垂仁天皇7年(紀元前23年)7月7日に捔力(すまひ)で対戦させた。 命をかけた二人の相撲は七日間にも及び、互いに激しく蹴り合った末、幼子が土俵に飛び出し気をとられた蹴速の一瞬の隙をついて、宿禰は蹴速の腰を踏み折って勝利

          芳年武者无類 野見宿弥 当麻蹴速

          資料集 西南戦争浮世絵

          広島県の海の見える杜美術館の企画展「西南戦争浮世絵 -さようなら、西郷どん-」に合わせて出版された目録。芳年作品を含む300点を越える国内有数のまとまった西南戦争錦絵コレクションがカラー印刷されており、冒頭で識者の解説も寄せられている。まだ研究がこれからの西南戦争錦絵において資料価値は高い。

          資料集 西南戦争浮世絵

          月夜釜 小鮒の源吾 嶋矢伴蔵

          古典落語の釜泥。石川五右衛門の子分達が、京都の三条河原で釜茹での刑にされた一味の恨みを晴らすために、江戸中の釜を盗むと宣言する。ある夜、豆腐屋の爺さんが釜の中に入り寝ずの番をすることにしたが、酒を飲んで寝込んでしまい、その間に二人の泥棒によって釜は盗まれてしまう。泥棒たちは運んでいる途中で爺さんの声に気づきそのまま逃げ出す。目を覚ました爺さんが地震と勘違いして釜から出てみると、武蔵野の星空が見えた、「しまった、今夜は家を盗まれた」(出典)。 鳥獣人物戯画を思わせるコミカルな

          月夜釜 小鮒の源吾 嶋矢伴蔵

          月百姿 君は今駒かたあたりほとゝきす たか雄

          吉原の花魁・二代目高尾太夫は万治高尾や仙台高尾とも呼ばれ、島原の吉野太夫、新町の夕霧太夫と共に三名妓と呼ばれるほどの名声を得た。高尾太夫は吉原で最も有名な遊女で代々襲名され、二代目高尾太夫は下野国の塩原塩釜村の百姓の娘あきを吉原の妓楼・三浦屋の主人四郎左衛門が引き取った。題名は二代目高尾太夫が伊達家19代当主・伊達綱宗をうたった歌とされる。 ただし、物事は複雑だ。以下の話は史実や流布が入り混じっているらしく諸説ある。伊達綱宗が高尾太夫を寵愛し身請けしようとしたが、彼女には実

          月百姿 君は今駒かたあたりほとゝきす たか雄

          月百姿 名月や畳の上に松の影 其角

          松尾芭蕉の蕉門十哲に数えられた俳諧師・宝井其角(たからいきかく、1661年-1707年)の雑談集より、収録されている題名の句にちなんで描かれた。 名月や畳の上に松の影 この句の季語は「名月」、時期は「仲秋」。秋の涼しさを感じる中秋の名月を、畳の上でくつろぎながら眺める様子が詠まれている。雑談集では11世紀の中国の詩人である王安石の「月移花影上欄干」という句に着想を得たと記している(出典)。松の影が畳の上に映り込む情景を通じて、月の美しさと秋の静けさが感じられる。 摺りは

          月百姿 名月や畳の上に松の影 其角

          魁題百撰相 会津黄門景勝

          寡黙で勇猛と知られた上杉景勝の首実検の場面。蒲生氏郷の早世もあり、秀吉晩年の慶長3年(1598年)に五大老の一人となった景勝が会津120万石へ加増転封された。奥州の要衝から徳川・伊達らの抑えとして、また上杉軍の強さの源泉である越後の領地・地侍から切り離すためだったが、秀吉没後に関ヶ原の戦いに繋がる会津征伐を直江兼続とともに引き起こした。 しかし、この浮世絵で景勝が会津中納言(黄門)と呼ばれているのは壮年期にもかかわらず若々しく描かれ、家紋も上杉笹ではなく葵紋となっている。題

          魁題百撰相 会津黄門景勝

          弾正大弼 上杉謙信

          上杉輝虎入道謙信は、琵琶法師・石坂検校をたびたび酒席に招いていた。ある時、平家物語の鵺の段(妖怪鵺を源頼政が射落とす場面)で涙を流した。謙信は理由を聞かれ、日本の武徳の衰退を嘆き、時代とともに武士の力が弱くなっており、源義家の時代から源頼政の時代、そして自らの戦国の武将の時代へと武威が衰えてしまったことを嘆いたという(出典:常山紀談)。謙信の武士の理想への謙虚さや思慮深さとも読めるし、酒も入った涙の理由を照れ隠ししたようにも聞こえるが、どうだったのだろう。 芳年の描いた謙信

          弾正大弼 上杉謙信

          芳年武者无類 日野隈若丸

          日野邦光(幼名:阿新丸)は南北朝時代の公卿。父・資朝は後醍醐天皇の討幕計画に参加したが、計画が漏れて捕らえられ佐渡ヶ島に流された。13歳の阿新は従者1人を連れて佐渡に渡り、守護本間入道に父との対面を願ったが許されず、父は殺されてしまった。復讐の機をうかがっていた阿新は、ある夜本間の寝所に忍び込んだが入道は不在で果たせなかった。しかし、父を斬った本間三郎を殺し、巧みに逃げ延び、山伏に助けられて都に帰ったという場面(出典)。 芳年武者无類に取り上げられた理由は明治時代の修身教育

          芳年武者无類 日野隈若丸

          月岡芳年 月百姿 著者 日野原健司 監修 太田記念美術館

          太田記念美術館監修、著者は日野原健司先生。月百姿のみ。解説も含めて過不足なくシンプルな本。 表紙の朝野川晴雪月 孝女ちか子は以前から人気あったみたいだが、人気のある芳年作品が展覧会や書籍でよく取り上げられることでさらに価格が上昇する傾向にあると思われる(例えば「芳年武者无類」や「大日本名将鑑」など)。朝野川晴雪月は月百姿シリーズの中でも特に高価な作品となっている。

          月岡芳年 月百姿 著者 日野原健司 監修 太田記念美術館

          謎解き浮世絵叢書 月岡芳年 和漢百物語

          町田市立国際版画美術館監修の和漢百物語の本。謎解き浮世絵叢書は全8冊、芳年は2冊。

          謎解き浮世絵叢書 月岡芳年 和漢百物語